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武田信繁:武田軍団の副大将を務めた信玄の弟

武田信玄の実弟として知られ、後世においても、その功績や人格を称えられている武田信繁。

彼は信玄の4つ下であり、大永5年(1525)に誕生、幼名を "次郎" と称した。

このころの武田氏は、父・武田信虎が甲斐国の統一をおおよそ成し遂げ、国外へ進出して後北条氏と抗争を繰り広げており、天文6年(1537)には、駿河今川氏・今川義元が当主になったのを機に、武田・今川間で甲駿同盟が締結されることになった。

父に寵愛された幼少期

ところで、幼少の頃の信繁だが、兄・信玄(=幼名は太郎)とは対称的に父から寵愛されていたという逸話がある。

『甲陽軍鑑』によると、父・信虎は、信玄と信繁を比較し、なにかと優れていた信繁のほうを寵愛するようになり、信玄を廃嫡して信繁を後継者にするつもりであったという。
そして天文7年(1538)正月元日の祝儀の席上では、信虎は信玄に盃をささず、信繁にだけ盃をさしたという。

これは「家督後継者=信繁」とする信虎の意志表示だったが、信玄はこれに動じるわけでもなく、一方の信繁もまた、兄の信玄をよく立てて、家督を継ぐ気は全くなかったようだ。

兄・信玄の元服時、同時に元服をすすめられた信繁は、「兄の許可なく元服はしない」旨の起請文を出してこれを辞退したといい、のちに信玄の許可を得てから元服したという。

このとき、信繁は左馬助の官途を名乗ったため、左馬助の唐名から"典厩(てんきゅう)"と呼ばれた。
なお、のちに信繁の子・信豊も左馬助を称したので、信繁を"古典厩"、信豊を"新典厩"と呼んで区別されたという。

父・信虎が追放

こうした中、天文10年(1541)6月に駿河国に出発する前の信虎は、家老の2人・板垣信方甘利虎泰に信玄を預け、信繁には躑躅ヶ崎館の留守居役を命じたという。

信虎は、娘婿にあたる今川義元と今後の協議をするために駿河国へ向かったのだが、その後、甲府へ戻ることはなかった。
いうまでもなく、信玄と重臣らによるクーデターによって、信虎は駿河へ追放されたからである。

このクーデターの理由は諸説あるが、その一因として、信虎が信玄を廃嫡して信繁に家督を譲ろうとしていた点もあげられている。

信玄21歳、信繁は17歳のときであった。

信濃経略で兄・信玄を支える

当主となった信玄は、引き続き今川氏との同盟関係を継続させ、父が行なっていた信濃国への侵攻も引き継ぎ、天文11年(1542)に諏訪郡を制圧したが、このとき、信繁は宿老の板垣信方とともに出陣しており、高遠頼継を諏訪から追い出したという。

信方が諏訪郡代となった後も、信方とともに信濃侵攻における先陣を務めたとされている。

天文17年(1548)2月、信玄が初の敗北を喫した「上田原の合戦」においても信繁は出陣したが、このときに板垣信方と甘利虎泰が討死となった。

信繁は以後も武田軍の先陣を務め、同年7月に武田軍が大勝した「塩尻峠の戦い」では、信繁の功績が大きいとされている。

天文19年(1550)12月には、信玄の嫡男・武田義信が元服した。これを受けてか、信繁は翌天文20年(1551)2月に武田氏の庶流・吉田氏の名跡を継いだという。(『高白斎記』)

これは信繁が、信玄の後継者となる義信に対して臣下となる事を、内外に示す意図があったと考えられているようだが、信繁が吉田姓を名乗った形跡はみられない。

信繁の評価とは?

さて、ここで信繁の評価について触れてみよう。

『甲陽軍艦』によると、信繁は、武田重臣の山県昌景から、内藤昌豊と並んで真の副将と評されており、江戸時代に伝わる"武田二十四将" では、副大将に位置づけられている。
さらに、江戸時代の儒学者・室鳩巣からは "賢" と称すべき人と評価されているようだ。(『駿台雑話』)

上述のように信繁が評されているのは、軍事面以外でも多くの役割や才能を有していたからであろう。

実際、武田方が北信の村上義清を攻めた天文22年(1553)4月、信繁は甲斐衆・今福石見守に対し、陥落した苅谷原城の城主への任命を上意通達しており、続けて葛尾城を攻略した秋山虎繁にも上意を伝えている。(『高白斎記』)

さらに信繁に教養があったことも、公卿の四辻季遠や冷泉為和らとの交流や、作成した家訓などからうかがえる。

家訓は信繁の子・信豊に対し、永禄元年(1558)に九十九ヶ条の家訓を与えているが、その内容に『論語』『孫子』『礼記』『韓非子』など、中国の多くの古典から引用しているのである。
ちなみに、家訓の第一条で、「武田典厩家は武田惣領家(=信玄やその子孫)に対し、未来永劫、謀反心を抱いてはならない」旨のことを説いている。

川中島での最期

信繁は、「もし信玄公に一大事の時が来たら、自分が身代わりとなって必ず討死する」旨を常々語っていたといい、また、信繁の容貌は信玄と似ていたため、時に応じて影武者を務めたとも伝わる。

武田惣領家に絶対の忠誠を誓っていた信繁だが、その最期は彼が若くして訪れた。それは永禄4年(1561)の川中島史上最大の激闘・第四次川中島合戦である。

-- 決戦前日の9月9日、信玄は上杉謙信との決戦を決断し、軍を挟撃する作戦に出ることにした。

その作戦とは、「別働隊に妻女山に布陣する上杉軍を攻撃させ、退却路の八幡原に信玄本隊が布陣して、上杉軍を待ち伏せる」というものであり、信繁隊は信玄本陣の前、信玄本隊の中央を守備していたが、この作戦は謙信によって見抜かれてしまったのだ。

翌10日の夜明け、川中島を覆っていた霧が晴れると、そこにいないはずの上杉軍が八幡原に布陣し、攻撃態勢をとっていた。
裏をかかれた信玄本隊は、妻女山に向かった別働隊が戻ってくるまで耐えながら戦うハメとなった。

このとき信玄本隊の前衛として上杉軍の猛攻撃を受けた信繁は、信玄に使者を送り「全員が討死を覚悟しているから援軍は不要。この間に勝利の工夫をするように」との旨を伝えたという。
そして家臣の春日源之丞を呼び寄せ、信玄から拝領した紺地の母衣を脱いで手渡し、以下のことを命じたという。

  • この母衣を信豊に手渡すこと。
  • 信豊が成長まで補佐すること。

こうして信繁は戦場に身を投じて討死となったが、その最期は槍で突かれたとも、鉄砲で撃たれたともいう。享年37。


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