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「穴山信君(梅雪)」主君勝頼を裏切ったあとの運命はいかに?

穴山梅雪の肖像画
武田一門衆の穴山一族の当主として知られ、武田宗家と深く結びついていた穴山信君。信玄・勝頼の二代に仕えて多くの軍役をこなすも、 武田滅亡時には我が身かわいさに織田信長に寝返ることに。しかし、主君勝頼を裏切った代償なのか、信君の最期もすぐに迎えることになる。

家督相続まで

天文10年(1541年)、下山城主・穴山信友の嫡男として誕生、母は武田信虎の娘で武田信玄の姉である。穴山氏は甲斐国巨摩郡穴山(山梨県韮崎市)を本拠とする武田一族の庶流、いわゆる武田一門衆であり、その一門衆の中でも武田宗家との結びつきがとても強かったことから一門衆の筆頭に列していた。信君の幼名が武田信玄のそれと同じ ”勝千代”であったことからも、武田宗家への意識が強かったことがうかがえる。なお、穴山氏が支配していた河内地方は、穴山氏独自の行政組織や家臣団を形成するなど、武田氏の支配から独立している側面もあったようだ。

やがて信君は元服を済ませ、13歳のときに天文22年(1553年)に武田宗家への人質として甲府の信玄の元に移され、父信友が出家した永禄元年(1558年)以降に家督を相続し、また、同じ頃に信玄のの次女・見性院を正室に迎えたとみられる。

穴山氏は代々今川家との外交を担当しており、父信友は隠居後も今川家との外交に携わっていたことが確認されており、かの有名な永禄3年(1560年)桶狭間の戦いののちに死去している。

信玄家臣期

父の死後、信君がはじめに参加した合戦というのが、永禄4年(1561年)に信玄と上杉謙信の激闘で有名な第四次川中島の戦いである。武田家の軍学書『甲陽軍鑑』によると、このとき信君は信玄本陣の左翼を担当して上杉軍と戦ったらしい。その後、永禄8年(1565年)に信玄の息子・武田義信とその側近の長坂源五郎、曽根周防守らが計画した信玄暗殺計画、いわゆる義信事件が勃発。計画は事前に露見して首謀者らは処刑、義信ものちに甲府の東光寺に幽閉されているが、この事件に信君の弟・穴山信喜も加担していたと考えられている。というのも翌年に自害しているからである。

以後、信玄の主な合戦のほとんどに参加。永禄11年(1568年)駿河侵攻においては、今川家臣を調略によって味方につけたり、徳川家との連携にも尽力。落城させた興津城の城代を任されている。この駿河攻めをきっかけに武田と北条は敵対関係となるが、永禄12年(1569年)に北条の本拠・小田原城への攻撃や、現在の愛川町三増が主戦場となった戦国最大の山岳戦・三増峠の戦いにも参戦して、大宮城に籠城する富士信忠を開城させることにも成功している。

元亀3年12月(1573年)徳川家康と対峙した三方ヶ原の戦いでは、信玄本陣に配置され徳川勢を深追いした武田軍が逆襲を受けた際、信君が防戦に活躍したとされている。その後まもなくして信玄が死去すると、家督を継いだ武田勝頼に仕えた。

勝頼家臣期

天正3年(1575年)、織田・徳川連合軍と武田との間で長篠の戦いが勃発すると、信君は武田信豊らと共に陣営中央に布陣。この戦いは武田勢に多くの戦死者、負傷者を出したことで有名な戦いだが、穴山家及び、信君に目立った活躍や奮戦の記録は一切なく、ほとんどの兵達もほぼ無傷で帰還している。『甲陽軍鑑』には、長篠の戦いで信君が積極的攻勢に出なかったという記録が残されており、この戦い自体に信君が反対していたとの記録も見られる。

戦に敗れた勝頼は信濃を経由して甲府に帰還。戦後処理を行う過程で、家臣の高坂昌信より戦の詳細を知らされ、その中で積極的攻勢に出なかった信君の切腹案が進言されたと言われている。武田はこの戦いで、武田四天王と言われた重臣、山県昌景馬場信春内藤昌秀を筆頭に多くの武将を失う大敗を喫し、領土の民の動揺を招いてしまう。この敗北を契機に信玄時代の積極的な領土拡大路線から脱却し、外交方針の再建をはかり、北条氏との甲相同盟に代表されるような他国との同盟に着手し始めた。

なお、信君は山県昌景が守っていた江尻城を託されることになり、天正7年(1579年)には江尻城に天守閣を建設している。

武田滅亡と梅雪の最期

天正8年(1580年)、信君は出家して「穴山梅雪斎」と号するようになる。天正10年(1582年)、武田滅亡となった甲州征伐が開始されると、梅雪は甲府にいた自身の人質を逃し、甲斐一国の拝領と武田の名跡の継承を条件に徳川を通じて織田信長に内通した。この梅雪の裏切りの具体的な理由は明確ではないが、穴山家が代々行ってきた武田宗家との婚姻や親戚関係の構築を巡っての確執が原因ではないかとの見方が有力である。

同年3月、江尻城を徳川家家臣である本多重次に明け渡して徳川軍と合流。徳川軍の甲斐国侵攻の案内役となった。 梅雪に裏切られ、その後小山田信茂にも裏切られた当主勝頼は天目山の戦いで自害、ここに名門武田家は滅びた。

その後、梅雪は甲斐武田氏惣領として徳川家の与力となる。5月には安土城に滞在していた織田信長に謁見し、徳川家一行と堺の街を遊覧し京へ戻っている。しかし、6月2日に明智光秀の謀反による本能寺の変で信長が命を落とすと、京でその一報を知った梅雪は徳川軍とは別行動を取って帰国を目指すことになるが、その帰路の木津川河畔(京都府京田辺市付近)において、落ち武者狩りの百姓勢に襲われて死亡した。

死因は自害、切腹、殺害など他説存在している。ルイス・フロイスは著書において、落ち武者狩りに複数回に渡って襲撃され、部下と荷物を失い、最後には殺害されたと記している。


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