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【信玄連載】第1回:勝千代誕生と幼年期の伝承(1521-34年)

信玄の誕生と、父・信虎の甲斐統一

大永元年(1521年)、甲斐の武田信虎は、駿河今川氏の侵攻で本拠・躑躅ヶ崎館にまで迫られ、窮地に陥っていた。 このとき、信虎は懐妊している大井夫人を居館の北東2キロ程先にある要害山城まで避難させてから、今川軍を迎撃して勝利を収め、戦後の同年11月3日に無事、嫡男が誕生した。

この子がのちの武田信玄である。

その後、一旦は勝山城へ引き下がっていた今川軍が再び攻め寄せ、11月23日に上条河原で衝突となったが、信虎は敵の大将・福島氏を討ち取るなど今川勢に大打撃を与えて撃退している。
このように信玄は、父・信虎の甲斐国統一過程に訪れた最大の危機の最中に生まれていたのだ。

信玄の幼名

さて、信玄は幼名を "勝千代" といったが、『甲陽軍艦』によると、信虎が今川軍との戦いで敵の大将・福島氏を討ち取った同日同時刻に信玄が誕生したため、この名前にしたという。
ただ、これは先に述べたように日付が異なるので成り立たない。

ちなみに、"太郎"という名も伝わっているが、これは幼名ではなくて通称らしい。

父・信虎の甲斐統一と国外進出

今川勢を国内から駆逐し、甲斐国統一をほぼ成し得た信虎は、まもなく国外へ進出する。

きっかけは大永3年(1523)に北条氏が扇谷上杉氏と敵対関係となり、翌大永4年(1524)北条氏綱が扇谷上杉の武蔵国へ侵略をはじめたことにあった。
武田氏は扇谷上杉氏と同盟関係にあったため、支援のためにたびたび北条勢と戦うことになる。

一方、大永7年(1527)になると、今川氏親が没し、嫡男の氏輝が継いだことで、武田氏と今川氏は和睦を結んだ。
これにより、信虎は南を気にすることなく、信濃経略に専念できるようになり、翌享禄元年(1528)にはさっそく信濃諏訪郡の諏訪頼満・頼隆父子と戦っている。

こうした中、国内において大規模な謀反が勃発する。

事の発端は、扇谷上杉の上杉朝興が関東管領・上杉憲房の後室を奪い、信虎の側室にしたことで、一部の武田家臣が反対したことにあった。
そしてついに、享禄4年(1531)正月に栗原兵庫・今井信元・飯富虎昌らが謀反して甲府北部の御岳山中にたて籠もると、大井信業も離反し、さらには信濃国の諏訪氏も呼応して韮崎へ侵攻してきたのである。

だが、信虎は甲斐国内における支配力は絶大になっていたようだ。

信虎は韮崎近郊で諏訪氏らをあっさりと鎮圧しており、今井信元は続けて浦の城に籠城して抵抗をしたが、これも天文元年(1532)に降伏させている。

ここにおいて、信虎の甲斐統一はゆるぎないものになった。信玄12歳のときである。

信玄の結婚と死別

天文2年(1533年)、13歳の信玄は政略結婚で上杉朝興の娘を正室に娶ることになった。
彼女はやがて懐妊したものの、翌天文3年(1534)11月の出産時に母子ともども死去してしまった。(『勝山記』)

幼少期の信玄について

さて、幼少期の信玄だが、実は確かな史料がなく、信憑性が低いといわざるをえない逸話ばかりが残されている。
ここでは以下に4つの伝承を紹介しよう。

七書の理に徹する

※『名将言行録』より

信玄は幼名を勝千代といい、8歳の頃から長禅寺に住み込んで修行をした。生まれつき理解や判断が早く、1字を学んで10字を知るほどであった。

-- とある日 --

勝千代の師僧が1巻の書を出して言った。

師僧

これは玄恵法師の『庭訓往来』という書です。よく勉強するように。

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勝千代はこれを2~3日のうちに早くも読み終え、師僧に言った。

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勝千代

これはさほど将たる者に必要なものとは思えませんゆえ、他になにか軍術に熟達できるものをお教えください。

師僧

ほほう、それはとても感心ですな。それでは他の書を出しましょう。

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師僧はそう言って、中国の七部『孫子』『呉子』『司馬法』『尉繚子』『三略』『六韜』『李衛公問対』をだしてきて、勝千代に読ませた。

すると勝千代は、

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勝千代

これこそまさにそれがしが望むものでございます。

勝千代は喜び、昼夜を通してこれを学び、その理を徹底的に悟ったという。


しゃべる木馬

※『名将言行録』より
これは甲府の長禅寺に伝わる、勝千代が遊んだという木馬にまつわる逸話である。

勝千代が12歳の秋の終りごろ、厠へ行くために縁側へ出ると、そこにいつも立ててあった木馬が急に身震いをし、言葉を発した。

木馬

勝千代!

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武田信玄アイコン

勝千代

???

勝千代は聞こえぬふりをしていたが、あまりの不思議さにそこに立ち止まっていると、再びその木馬がしゃべった。

木馬

勝千代!軍術と剣術ではどちらのほうがよいとおもうか?

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勝千代

どちらもだ。これこそ剣術の極みである。

勝千代はそういうと、すぐさまに一太刀で切り、木馬は縁から下に ”ズドン” と落ちた。そこで、勝千代は小姓を呼びだして命じた。

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とある小姓

お呼びでしょうか?

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勝千代

そこの縁側の下になにがあるのか見てこい。

小姓が火をもって近づいてみると、そこには大きなタヌキが血に染まって死んでいたのであった。


夕雲雀を取る

※『名将言行録』より

勝千代が13歳の春ごろ、野に出て遊んでいると、40歳ほどの男が草に平伏してなにかをうかがっている様子であった。

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勝千代

あの男はなにをしているのだ?聞いてみてくれ。

勝千代はそばにいたお供の者に命じた。

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勝千代のお供

おい、そちは一体なにをしておるのだ。

40の男

へい、夕雲雀を取ろうとして朝からここに来ております。

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これを聞いた勝千代は、お供の者に言った。

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勝千代

「蟹は甲羅に似せて穴を掘る」ということわざがあるが、なるほどなあ。。
あの男はあのようにして雲雀をうかがうのが分相応なのだろうが、わしはわしのやり方で取ってみせよう。

そう言うと、勝千代は高いところに登り、麦畑や芝の生い繁っている中に、雲雀が降り立つところを見極めると、大勢の者に命じてたちまちに数十巣を取ったという。


蛤(はまぐり)

※『名将言行録』より

勝千代には姉がおり、姉は駿河の今川義元に嫁いでいた。

勝千代13歳のときのある日、その姉から勝千代の母宛てに、貝合わせ(=貝殻の美しさや珍しさを競う等の遊び)のためにということで蛤がたくさん贈られてきた。
そこで大きいのを選んで、残りの小さいものは畳二畳分ほどに、ほぼふさがるぐらいで、高さは一尺もあったろうか。これを小姓たちに数えさせると3700余であった。そのとき諸将士が参候してきたので、

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勝千代

このハマグリはどのくらいあると思うか?

武田諸将ら

諸将A:うーん、2万ほどでしょうか。
諸将B:いや、1万5千くらいかな。

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これを聞いた勝千代は、

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勝千代

人の数ならばそれほど多いとは思わないであろうに。だが5千の人数がいれば、何事もしようと思えば思いのままだ。

武田諸将ら

諸将A:おおお!
諸将B:なんと立派な。

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聞いた者は舌をふるわぬ者はなかった。


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