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信玄の結婚・初陣と甲駿同盟(1535-39年)

今川義元の登場と信玄の結婚

さて、武田氏と今川氏の関係だが、両者は今川氏輝の代になったときから和睦していた。しかし、天文4年(1535)になると、武田信虎(=信玄の父)と氏輝は不和となって6月には軍事衝突が勃発している。
以下にその経過を記す。

  • 6月5日:信虎が出陣して富士川沿いに駿河へ向けて兵を進める。
  • 6月27日:今川氏輝も出陣する。
  • 8月19日:甲斐・駿河国境の万沢で衝突する。
  • 8月22日:氏輝の要請で北条の援軍が山中(南都留郡山中湖村)に攻め寄せ、武田勢が迎撃。

上述の8月22日の戦いで武田勢は、小山田越中守信有や信虎弟の勝沼信友らが応戦したが、数百人の戦死者を出して敗れ、信友も戦死したといい、同日北条勢に上吉田を、翌日に下吉田を焼き払われた。(『勝山記』)

ただ、その後は扇谷上杉氏が北条方を牽制したたため、北条勢が引き上げ、信虎は救われる形となった。
信虎は今川・北条の2氏を敵にまわし、この敗戦によって危機感を抱いたのか、直後の9月に信濃国の諏訪頼満と和睦している。

信玄、元服する

天文5年(1536) 3月、信虎の嫡男・勝千代(=のちの信玄)が元服を果たし、12代将軍義晴の一字をもらい受け、”晴信”と称した。(『高白斎記』)。なお、同年は武田氏にとって大きな転機となる。

今川家のお家騒動

信玄が元服した3月、駿河今川家では、当主・氏輝と弟の彦五郎が同日に亡くなるという不可解な出来事が起きた。(『高白斎記』ほか)
このため、家督継承権が五男・栴岳承芳に巡ってきたが、異母兄弟の玄広恵探を外祖父の福島上総介が擁立したため、6月には家督争いに発展して両派の内戦となった。この内戦は多くの今川重臣が栴岳承芳を支持し、玄広恵探は敗れて自害した。(花蔵の乱)

実はこの栴岳承芳こそがのちの今川義元であり、承芳を支援したことで、武田・今川の関係も一気に好転していくことになる。

なお、武田氏や北条氏は承芳派を支持しており、恵探派の福島一族は北条の援軍によって滅ぼされたという。(『高白斎記』)。

また、同じく恵探派であった前島一門は甲府へ逃れてきたが、栴岳承芳を支持することを決めた信虎は彼らに切腹を命じている。 ただ、この処断に反対して甲斐国の奉行衆がことごとく他国へ退去するという事態が発生したといい(『勝山記』)、武田家中では政策に関して意見が不一致だったことがうかがえる。

信玄、公家の娘を娶る

7月には信玄は今川氏の斡旋により、京都三条公頼の息女を継室に娶ったという。(『甲陽軍鑑』)
かつて信玄は13歳のときに政略結婚で上杉朝興の娘を娶っていたが、1年ほどで死別していたのだ。

三条家は摂関家に次ぐ家格である精華家に位置する名門の公家である。
このように、信虎が後継者の信玄に公家の娘を娶らせたり、将軍の一字を拝領させたりしたことは、武田氏の家格を高めようとする意図があったとみられている。

信玄の初陣「海口城の攻略」

なお、『甲陽軍鑑』によれば、同年11月には信玄が信濃佐久郡への出兵で、初陣を飾ったと伝わる。
以下にその内容をみてみよう。

※『名将言行録』より

勝千代(=晴信、信玄)が元服した年の末頃、父・武田信虎は兵8000を率いて信濃・海口城を攻めたが、このとき城主・平賀成頼入道源心はなかなかの将で城も堅固であり、武田方は攻めあぐねていた。
そのうちに大雪が降ってきて、ますます城を陥落させることが難しい状況になった。

ーー 同年12/26 武田方の陣 ーー

重臣らは軍議の中で言った。

重臣ら

重臣A:敵の城兵が3000もいるとなると、こちらの攻めが成功するのも容易ではないのう。
重臣B:殿!今日は早くも12月の26日となり、年の瀬も迫っております。ここはひとまずご帰陣なさって来春のことになさるのがよろしいかと存じますが・・。
重臣C:敵も大雪といい、年末といい、後を追ってくるなどということはゆめゆめありますまい。

家臣アイコン

武田信虎

うむ、その通りじゃ。一旦引きあげようぞ。

武田信虎アイコン

こうしてすっかり引きあげることに決まったが、晴信が進み出て言った。

武田信玄アイコン

晴信

父上、それがしに殿軍をお任せください。

武田信虎

フッ・・。武田の名折れにもなるようなことを申すやつじゃ。
敵が追ってくるまいと戦い慣れた者たちが申した以上、たとえわしがそちに殿を命じても、「それは次郎(=晴信の弟)に仰せつけ下され」などと申してこそ惣領であろう。次郎ならば到底このようなことは言うまい。

武田信虎アイコン

こうして晴信は叱られたが、それでも強く望んだため、

武田信虎

それならば後尾につけ!

武田信虎アイコン

・・ということで晴信は翌27日の暁に出発した。

ーー 12/27 ーーー

晴信は東へ三十里ほど下って残り、やっと300ほどの兵で殿を務めた。その夜、晴信は1人に3人分の食糧を与え、武装を解かせずに馬にも十分に餌を与え、鞍をおろさせなかった。

寒空のため、晴信は上戸下戸にかかわらずみなに酒を飲ませ、そして自ら兵士たちに触れまわった。

武田信玄アイコン

晴信

七つ時分(=午前4時)に出立するゆえ、準備をしておくのだ。

兵士らはみな、ひそかに晴信のことを嘲笑していた。このころ、父・信虎は嫡子である晴信よりも次男の次郎(=武田信繁)を寵愛しており、家臣たちもそれを知っていたのである。

兵士ら

兵士A:殿が晴信様をけなすのももっともなことじゃ。
兵士B:プププ。殿軍といっても、この風雪でどうして敵が向かってくるというんじゃ。
兵士C:その通りじゃな~。ワハハハ!

家臣アイコン

ーー 12/28 ーーー

そして時間がくると、晴信は300騎とともに雪の中を突っ走った。それは甲府方面ではなく、引き返して敵の海口城へ向かい、夜明け前に城に到着したのであった。

平賀源心は油断して既に兵の多くを家に帰してしまっており、城にはわずか5、6千ほどしかいなかった。晴信は兵を3つに分けて自ら1隊を率いて城に入り、残りの2隊は旗を城外にあげてこれに応じた。
そして、敵の城兵はこちらの兵数もわからずにうろたえ、戦わぬうちに滅びてしまったのである。

ーーー甲斐国ーーー

信玄は源心の首を取って持ち帰り、父・信虎に献上した。

武田信玄アイコン

晴信

父上!源心の首を取ってまいりました。

諸将ら

諸将ら:おおっ!!

家臣アイコン

諸将らはみな驚いたが、信虎はこの功を褒めることもなく、そして言った。

武田信虎

フンッ!その城にそのまま腰をすえ、遣いをよこそうともせずに城を捨てて帰ってくるとは臆病千万じゃ!

武田信虎アイコン

諸将らは晴信の行動を内心感服していたが、信虎の手前もあり、あえてその戦功を称えるということはしなかった。そして晴信はますます愚か者を装っていた。このときの晴信はまだ16歳であった。

甲駿同盟の成立

天文6年(1537)2月には、信虎が長女・定恵院を義元に嫁ぎ、ここに武田・今川同盟が成立した。

この同盟によって武田氏は、南方の脅威が消えて信濃経略に注力できることになり、一方の今川氏は、これまで長らく同盟関係にあった北条氏と敵対することになる。

ところで、今川氏はなぜ、北条氏と敵対してまで武田氏と同盟を結んだのだろうか?

これははっきり解明されていないようだが、一つの見解として義元の師・太原雪斎が裏で糸を引いたとされている。

というのも、雪斎はかつて義元の教育係としてともに修行を重ね、その過程で京都の公家や文化人とも交流して人脈を築いており、義元が当主となった暁には、国政の補佐役に抜擢されていた。
要するに、雪斎は義元が幼少の頃より絶大な信頼を得ていた人物なのである。

しかも、このときの義元はまだ19歳であった。それゆえ、人生の師でもある雪斎が外交僧の役割を果たし、今川と武田を結びつけたとみられているのである。

河東の乱

この同盟に北条氏綱は激怒して、すぐさま2月下旬に大軍を率いて駿河国への侵略を開始し、あっという間に駿河国の富士川以東(=河東)の駿東・富士2郡を押さえ、富士川を越えて興津あたりまで焼き払ったのである。(河東の乱)
このとき信虎は、今川氏を救援するために須走口に出陣し、たびたび戦火を交えている。

天文7年(1538)も対立は続き、5月16日には北条勢が吉田新宿を夜襲したが、一時的に武田・北条間で和睦が成立した。しかし、10月12日には北条勢の須走衆が上吉田を夜襲したものの、逆に討死しているので、すぐに破談となったようである。

武田と北条の衝突は天文8年(1539)まで繰り返されたが、やがて小康状態となった。


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