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【信玄連載】第3回:”悪逆無道”の武田信虎、国外追放へ(1539-41年)

諏訪氏と同盟、信濃経略に専念

甲駿同盟により、今川氏と北条氏が敵対関係となって駿河東部で衝突した河東の乱では、武田信虎も今川に援軍を出して北条勢と戦ったが、天文8年(1539)に入ると、この乱は小康状態となっていた。

そうした中、信濃経略を狙っていた信虎に転機が訪れた。

同年末に諏訪頼満が没し、孫の頼重が跡を継いたため、翌天文9年(1540)には諏訪氏と同盟を結んだのである。
信虎はあらかじめ三女の禰々(=信玄の妹)と諏訪頼重を婚約させた後、以下の流れで同盟締結に至った。

  • 5月:軍勢を佐久郡へ入れる。
  • 7月:諏訪氏に長窪城(小県郡長門町) を与える。
  • 11月:禰々を頼重に嫁がす。
  • 12月9日:頼重が甲府に婿入りする。
  • 12月17日:信虎が諏訪を訪れる。

こうして武田氏と諏訪氏の関係はさらに強固なものとなり、信虎の佐久侵略も、"1日に城を36も攻め落とす" ほどの破竹の勢いで進められていった。

海尻城攻めにおける信玄の一言

なお、同年の戦いで、佐久郡海尻城を攻めたときの信玄の逸話があるので、以下に紹介しよう。

※『名将言行録』より

天文9年(1540年)、武田方が村上方の支城である信濃・海尻城を攻め取った。しかし、これを知った村上義清はすぐさま海尻城を取り戻すために攻め込んできた。

このとき海尻城の本丸に小山田備中昌辰、二の丸・三の丸に日向大和守・長坂光堅が少し前に降伏した信濃衆とともに守備していた。
しかし、信濃衆が村上義清と内通し、夜中に城内から火をかけて敵を招き入れたため、日向・長坂らは不意をつかれて二の丸・三の丸は攻め落とされ、武田方はちりぢりとなってしまった。

そして、その知らせを受けていた晴信(=信玄)が援軍に向かったところで、逃げ落ちてきた日向大和守とばったり会ったのである。

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日向大和

!!
あ、あれはもしや?

家臣アイコン

日向大和守は晴信に気づくと、馬から飛び降りて路の傍らに平伏した。

<a href='http://sengoku-his.com/shingen'>武田信玄</a>アイコン

晴信

そこにおるのは大和か?

日向大和

はっ!このような姿でお目見えいたしましたこと、恥ずべきことに存じます。

家臣アイコン
武田信玄アイコン

晴信

うむ、このようなときは誰であろうといたしかたない。しかし、よくぞここまで無事に逃れ、わしも満足だ。さぞかし無念であったろう。

疲れておるだろうが、ここからすぐ引き返して今日の先陣を任せる。

日向大和

ははあーっ!

家臣アイコン
武田信玄アイコン

晴信

うむ、そちにまた大馬印をあずけるゆえ、それを先頭にして一功名をたててみよ。

日向大和守

面目身に余りまする。ありがたく御引き受けいたします。

家臣アイコン

そしてすぐに大和は馬に乗り、大音声で言った。

日向大和守

南無弓矢八幡大菩薩、小山田が本丸で凌いでいる間に、駆けつけさせて下され!

家臣アイコン

武田兵たち

武田兵たち:おおおおおーーーーーっ!!

家臣アイコン

こうして日向大和守はいつも以上に勇ましい様子で海尻城へ向かって行った。

ーーーしばらくして、先陣の日向大和守のもとに晴信からの使者が来た。

使者

晴信様が「大和の勇勢はいつも以上に勝っているゆえ、勝利は間違いなしだ」と申しておりました。

家臣アイコン

日向大和守

それはありがたきお言葉、かならずや功をあげてみせますぞ!!

家臣アイコン

これを聞いて大和守は君命をありがたく感謝し、すぐに海尻城へ乗りつけて大きな功をあげた。
信玄の一言によって大和守は覚悟を決めて大功を立てたということである。

海野平の戦い

天文10年(1541)に入っても信虎の勢いは止まらず、同年5月には諏訪頼重や埴科郡の村上義清と連合して、小県郡へ侵入して海野・禰津氏らの滋野一族を攻めた。(海野平の戦い)
13日には尾山(小県郡丸子町)、14日には海野平(同郡東部町) を陥落させ、海野棟綱や真田幸隆らを上野国へ敗走させている。 なお、真田幸隆は真田幸村の祖父であり、のちに武田家臣団に加わって大きな役割を果たすことになる。

このように信濃へも勢力を伸ばしはじめた信虎だったが、帰国後には悪夢が待っていた。

信虎、国外追放

信濃から帰国した信虎は、6月14日に今川義元に会うために駿河国へ向かったが、その間に嫡男晴信(=信玄)が国境を封鎖してしまった。(『塩山向嶽禅庵小年代記』)
なお、信虎はかつて甲駿同盟の際に、長女の定恵院を義元に嫁いでいる。

『甲陽軍鑑』によると、信玄は信虎に付き従っていた兵士らの妻子を人質として捕えたため、これらお供の兵士らは信虎を見捨てて甲斐へ逃げ帰ったという。つまり、信虎は実の息子に国を乗っ取られ、甲斐から追放されてしまったということだ。

このクーデターに関して、信虎=悪人、信玄=救世主 のように伝えられている。
信虎の悪行がひどかったために、信玄が父を追放した(『勝山記』『塩山向嶽禅庵小年代記』)といい、追放後には、国内のすべての者が喜んだ(『勝山記』)、国内が平静に帰した(『王代記』)など、信虎が散々に言われているのである。

信虎の "悪行" が何を指すかの具体的資料は残されていないが、領国経営の失政によって家臣団や領民たちの不満を高めたことが、この追放劇につながったとの見方が強いようだ。
なお、このクーデターは板垣信方をはじめ、甘利虎泰飯富虎昌などの重臣たちが協力していることから、彼らが主体となって信玄を担ぎ出した可能性が高いことも指摘されている。

一方、『甲陽軍艦』『当代記』では、信虎が信玄弟の次郎(のちの武田信繁)に家督を継がせようとしたことをクーデターの原因としている。

ちなみに、この追放劇は今川義元が信虎の受け入れを承諾したことで成り立ったが、義元が事前にクーデター協議に関わったかどうかはわかっていない。

ここに武田家は異例の形で信玄が跡を継いで当主となり、新たな体制で再スタートすることになる。


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