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【信玄連載】第4回:信玄、信濃国諏訪郡を平定(1541-42年)

天文10年(1541)6月14日、国境を封鎖して父・武田信虎を追放した信玄は、3日後の17日に当主として躑躅ヶ崎の館内に移った。(『王代記』)

同月28日には家督相続の祝宴を行なわれたが、この日は陰陽道でいう最もよい吉日だったといい(『高白斎記』)、信玄は縁起を担いで日を選んだとみられる。
こうして信玄は21歳にして、名実ともに武田氏の当主となり、甲斐国主となった。

信玄はしばらくは信虎追放劇の混乱を鎮めるために、内政に努めたようだが、国外侵略をすすめる必要に迫られていた。
というのも甲斐は小国で生産力が低く、さらに当時は異常気象による自然災害の被害を受けて食糧難であった。つまり、家臣や領民のために所領を拡大し、富を得る必要があったのである。

諏訪郡の経略

信玄ははじめに信濃の諏訪郡に目をむけ、信虎が行なっていた信濃経略を踏襲することにした。
ただ、諏訪郡は諏訪氏が支配する地であり、かつて信虎が娘を諏訪頼重に娶らせたことで同盟関係にあったため、攻めとるわけにもいかない。

そこで信玄は以下の3点をふまえて一計を案じることにした。

  • 甲斐国と同様、諏訪の地もまた、自然災害などで疲弊していた。
  • 頼重が新領地開拓のために侵略を行なったが、成果に乏しくて民衆の心も離れつつあった。
  • 諏訪氏の内部には、反頼重派がくすぶっていた。

反頼重派というのは高遠頼継、諏訪上社の矢島満清、諏訪下社の金刺氏の3者である。

高遠頼継は諏訪一族で伊那郡高遠城主であり、自分こそが諏訪氏の惣領になるべきと考えていたらしく、矢島満清と密かに結びついた。また、金刺氏はかつて諏訪氏に屈服した経緯があることで勢力回復をはかっていた。
信玄は彼らと結びつき、秘密裏に頼重を討つ計画をすすめていったようだ。

諏訪氏を滅ぼす

そして、翌天文11年(1542)の6月には計画を実行に移したようである。
以下、『守矢頼真書留』『高白斎記』などを元に戦いの経過をたどってみた。

6月24日、武田軍が諏訪領に侵入するという知らせを聞いた諏訪頼重や家臣らは、みな半信半疑であり、以後4日間にわたり貴重な時間を空費したという。
これは武田と同盟関係にあって、信虎の娘を妻にもつ頼重にとっては無理もないことかもしれない。

6月28日の夜にようやく知らせが真実だとわかると、居城・上原城ではあわてて貝を吹き、鐘を鳴らして軍兵を集める始末で、兵力はわずか騎馬150、歩兵7~800程にしかならなかったらしい。

7月1日、信玄の軍勢は長峰・田沢(茅野市)あたりに陣取った。
一方、頼重は家臣に武田軍の物見をさせたが、武田兵の数は騎馬2千・歩兵2万という報告を受けたという。これはあまりにも多く、報告者の見誤りと思われるが、諏訪の兵数と比べて武田兵が多勢だったことは容易に想像できる。

翌2日には、高遠頼継軍も杖突峠を越えて諏訪に侵入し、安国寺門前(茅野市)に放火した。 武田軍に加えて高遠軍を相手にもはや敵うはずもなく、討死を決意した頼重だったが、家臣らの諌めにより、上原城を捨てて北方2キロ程に位置する桑原城に退却した。

3日は早朝に桑原城周辺で小ぜり合いがあった程度で、戦闘はなかったが、夕方以降は大雨がきて嵐となった。
こうした中、頼重が次の日に備えて、軍勢の配置を視察しようと山頂の本丸から尾根を下ったところ、城兵らは大将が逃亡すると勘違いして、我先にと城を脱出してしまい、残されたのは頼重と2人の弟や一族・近習などわずか20人ばかりで、嵐の夜を桑原城の本丸で明かしたという。

そして4日、いよいよ武田軍が桑原城を包囲すると、頼重は討死覚悟で2人の弟と打って出ようとしていたところ、信玄から和談を求められ、ついに降伏・開城となった。

頼重は、高遠頼継に切腹させようと考えていたようであり、この期に及んで真の敵を理解していなかった。
実際、翌5日に頼重は武田軍に引き連れられて甲府へ送られ、19日に板垣信方の屋敷に幽閉されて21日に切腹させられたのであった。

高遠頼継を追い出し、諏訪郡平定

諏訪氏を滅ぼした後、信玄は上原城に兵を置き、諏訪郡は宮川を境として東を武田氏が治めることになった。

一方、西は高遠頼継の所領となったが、これに満足しない頼継は、矢島満清らと共謀して箕輪の藤沢氏や上伊那の土豪・春近衆と結託し、同年9月10日には挙兵して上原城を襲撃して諏訪下社と諏訪上社を占領した。
これに対し、信玄は翌11日にすぐさま重臣・板垣信方の軍勢を向かわせると、自らも頼重の遺児・虎王を擁立して19日に甲府を出立したという。

このため、信玄は諏訪頼重の遺臣も味方につけ、25日には安国寺門前宮川のほとりでの高遠軍との戦いで衝突し、圧倒的な勝利を収め、頼継を伊那郡高遠へ敗走させている。
この戦いで武田軍は、頼継の弟頼宗(蓮芳軒)や満清の子など700余人を戦死させ、矢島満清も他郷へ逃亡させている。 また、敗走兵を追って上伊那郡にも侵入し、28日には駒井高白斎の軍が箕輪城の藤沢頼親を降伏させ、翌29日には板垣信方の軍が上伊那へ出陣して残る敵を掃討したという。

こうして諏訪郡は平定されたが、翌10月には信玄がどこか(=上伊那か?)へ出兵し、新しい家来衆らを勇気づけるために乱取りを許可したときの逸話があるので、以下に紹介しておこう。

※『名将言行録』より

「乱取り」とは合戦のあとに、兵士が人や物を略奪する行為を指す。

-- 10月21日、板垣信方の陣 --

19、20日と乱取りをした翌日の21日、先鋒の甘利虎泰が板垣信方の陣営にやってきた。

甘利虎泰

不思議な夢をみたのじゃ。今宵、諏訪大明神の神の使いだという大山伏がでてきて「こたび下郎どもが乱暴狼藉を働いているのはあるまじき非道である。早く止めさせよ。」とお告げしたのじゃ。まことに不思議なことじゃ。

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板垣信方

なんじゃと!?実はわしもそのような夢をみたのじゃ!!

家臣アイコン

甘利虎泰

なんじゃとお!?そんなことがあるかのう・・まったくもって不思議じゃ~。

家臣アイコン

さらには飯富虎昌もやってきて同じことを言ったのである。

信方陣営の兵たち

がやがやがやがや・・・・

家臣アイコン

これを聞いていた兵士らも驚き、板垣信方ら3人はすぐに狼藉を禁じる命をだした。そしてこのことを聞いた兵士らは誰一人として禁を破るものはなかったというのである。

ここで話は前日の20日に戻る。

-- 前日(20日) --

信玄が信方を呼び出したときのこと。

板垣信方

殿、いかがなされましたか。

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<a href='http://sengoku-his.com/shingen'>武田信玄</a>アイコン

武田信玄

うむ、こたびは乱取りを許したが、下郎どもは元々これが大好きゆえに夜も明けぬうちから走り出ていき、夕方頃にようやく戻ってくる。おそらくだが、いまとなっては相応の獲物を手にいれなかった者は一人もおらぬだろう。

そろそろ信濃勢からも攻め込んでくると思うが、そのとき下郎どもが乱取りに夢中で陣が空っぽであれば、どうして敵にあたることができようか。

板垣信方

たしかに。殿のおおせのとおりですな。

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武田信玄アイコン

武田信玄

わしが乱取り禁止を命じても、こっそりと人目をかすめ、夜にまぎれて出かける者がおったら、その者を誅伐するほかないであろう。しかし、陣中でそうすることは主将たる者のなすべきことではない。

できれば乱暴狼藉を下郎ども自らが気づいてやめるようにするのがよいのだ。

板垣信方

・・・
いかようにして、気づかせるのでございますか?

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武田信玄アイコン

武田信玄

うむ、まずはそちと飯富・甘利の3人の陣中を禁止にせよ!さすればその他の隊は枝葉ゆえ、禁令を出さずとも止むであろう。

板垣信方

なるほど、それはよきお考えでございますな。

家臣アイコン

このように信玄は事前に板垣信方らと取り計らっていたのである。案の定、乱暴はぴたりと止んだということである。


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