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上伊那郡の攻略、高遠頼継らを降す(1543-45年)

板垣信方が諏訪郡代へ

信玄が滅ぼした諏訪氏の居城・上原城は、甲府・佐久・伊那・筑摩などの各方面をつなぐ要衝の地で、信濃経略を進めていく上での重要な拠点であった。

そこで信玄は、信濃国・諏訪郡を平定した翌天文12年(1543)5月、この上原城を修築して、重臣の板垣信方を諏訪郡代に任命して在城させたのであった。

同年9月9日、信玄は甲府を出陣し、佐久郡大井郷周辺に勢力をもつ大井貞隆の討伐に向かった。
17日には長窪城を攻囲し、2日後の19日には同城を陥落させて、貞隆を生け捕りにし、貞隆に加勢した望月昌頼らは逃亡している。

同年中は、上記のほかに武田氏の軍事行動はみられないが、信玄が山本勘助を家臣に召し抱えたときの逸話が残っているので以下に紹介しておこう。

※『名将言行録』より

天文12年(1543年)3月のこと、重臣の板垣信方が牢人であった山本勘助を家臣に取り立てるように推挙すると、信玄はすぐに勘助を招いて200貫の領地を与えた。

-- 甲斐国・信玄の居城 --

牢人を取り立てていきなり多くの知行を与えるという異例のことに、家中では疑問に思う者もおり、原昌俊がこれを諌めた。

原昌俊

殿!いきなりそれだけの知行を与えるのはいかがかと存じまする!

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武田信玄

そちが不審に思うのももっともなことだ。
わしは小さい頃より武家の棟梁になって天下を統一しようと思い、小山田備中守と相談して、14のときにひそかに三河国牛窪にでかけて行き、勘助と主従の契約を結んだ。

原昌俊

なんと!!

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武田信玄

それからは勘助を武者修行と称して諸国をまわらせ、各地の風俗を探させたのだ。

また、各地の要害を絵図に描かせたゆえ、わしはまるでその地に行ってみているように詳しく知っておる。これは勘助の功ではないか?

原昌俊

むうう・・。

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昌俊は返す言葉もなく、家中の者らも勘助の話を聞いて感歎した。そして信玄は続けて話した。

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武田信玄

父・信虎を廃した後は勘助を目付として駿河に置いておった。勘助ほどの者が仮に今川家に仕えようと望んでいたとして、なぜ9カ年もの長い間、それを成せずに駿河に留まっているのか。必ずや自ら今川家へ仕官の道を求めて成し得たはずだ。

今ではわしの勇名は近隣にひびき、今川家ごときは少しも恐れぬ。だから信方の推挙を幸いに、いま呼び寄せたわけだ。

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武田信玄

勘助という者は当代弓矢とって随一であろうぞ。あの男は今後はわしの師範であるから、そなたらも水魚の交わりをして、ますます軍学に励むがよい。

原昌俊

それはたいした者にござりまするな。

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こうして原昌俊は勘助のことを褒め、納得して退出した。

一方であるとき、長坂光堅が信玄の側近として召しあげられる勘助を妬んで言った。

長坂光堅

最近、勘助をお近づけになられますことは、今川家の思惑もあるかと存じます。

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武田信玄

「謀のある者は近づけよ」ということがある。今川がなんと思おうが、わしは勘助の言うことに耳をかたむけようぞ。

長坂光堅

ぐくっ・・・。

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このように信玄は勘助に絶大な信頼を寄せていたのであった。


上伊那の攻略

天文13年(1544)になると、信玄の軍門に降っていた藤沢頼親が高遠頼継に通じて背いた。

これに対し、信玄は同年10月末に出兵して藤沢頼親の居城・箕輪城近くの荒神山まで攻め込むが、このときは頼継の援軍もあったために退却したようだ。逆に12月には高遠頼継が諏訪郡へ侵入して、諏訪上社の神長官・守矢頼真の家が焼かれたという。

そして信玄は翌天文14年(1545)から高遠頼継と藤沢頼親討伐のため、本格的に上伊那攻めを実行した。以下にその経過を示す。

  • 4月11日:信玄、甲府を出陣。
  • 14日:武田軍、上原城に到着。
  • 15日:杖突峠に着陣、高遠頼継の高遠城を攻撃。
  • 17日:頼継が高遠城を捨てて逃亡。
  • 18日:武田軍、高遠城へ入城。
  • 20日:武田軍、藤沢頼親の籠もる箕輪城を攻撃。

箕輪城は容易に陥落できず、さらに府中の小笠原長時の援軍も竜ヶ崎城に籠城して抵抗したため、信玄は攻略に難航したようである。
こうした中、5月22日に武田方にも今川義元の援軍が到着し、6月1日には板垣信方の隊が竜ヶ崎城を陥落させると、6月10日にようやく和議となって頼親を降伏させた。
なお、逃亡した高遠頼継ものちに信玄の家臣となっている。

このようにして信玄は上伊那をほぼ制圧したのであった。

信玄の仲介により、河東の乱が終結

一方、お隣の今川氏と北条氏では、小康状態となっていた河東の乱が再び動き出した。

両者は駿河国の富士川を挟んでにらみ合っており、この頃に和平交渉が進められていたが、ここにきて不調に終わり、同年7月に義元が戦いで決着をつけるために出陣し、同盟国の信玄もやむなく兵を出したようだ。

『高白斎記』によると、8月10日に信玄は善得寺近くに出陣して今川方に使者を派遣し、翌11日には義元と直接会って血判状を取り交わし、13日に甲斐へ帰国したという。
これは武田・今川間の同盟の確認が行われたとみられている。

こうした中、今川軍は善得寺からさらに東へ進んでいったが、一方の信玄も再び出陣し、9月中旬には吉原城にいた北条氏に軍事的圧力をかけ、伊豆国三島まで北条氏を退却させている。
このとき、信玄は北条氏康と書状を交わしており、北条方が退却したのは武田が今川・北条間の和睦調停を任されたからとの見方もある。
実際、9月20日以降、今川軍が北条方の長窪城まで到達して攻防戦が行なわれたようだが、武田軍が参加した形跡はなく、今川と武田の軍勢は合流して、進軍していたわけではなさそうである。

10月24日に管領・義元・氏康3者互いの誓約書が信玄のもとに届けられ、翌11月にようやく今川氏と北条氏による長き戦乱の幕が閉じたのであった。


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