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「上田原の戦い」で初の惨敗を喫す(1546-48年)

佐久郡をほぼ制圧する信玄

天文15年(1546)から、信玄は信濃佐久郡の経略を一気に加速させていく。

大井貞清の内山城を奪取

同年5月3日、信玄は内山城で抵抗する大井貞清を攻めるため、甲府を出発した。
大井氏は小笠原一門で、佐久郡大井郷に勢力をもった佐久の国衆であるが、実は3年前に貞清の父・大井貞隆が信玄に降伏しており、子の貞清が家督を継いでいた。

以下、信玄が大井貞清を攻略するまでの流れを記す。

  • 5月6日:前山城(佐久市前山)に到着。
  • 9日:内山城への攻撃を開始。
  • 10日:内山城の水の手を断つ。
  • 14日:本丸を除く部分を占領する。
  • 20日:貞清は降伏し、内山城を明け渡して野沢へ移る。

上述のように、武田軍は攻撃開始からわずか11日で降伏・開城させた。
なお、内山城は上原虎光が守備を任されることになり、翌天文16年(1547)5月には、信玄の説得に応じた貞清が甲府へ出仕してきている。

こうして佐久郡の国衆らが相次いで武田に降り、信玄は佐久郡の主導権を握った。

志賀城攻めと小田井原の戦い

続いて信玄は、内山城のすぐ北に位置する志賀城の攻略を行なうことになるが、ここの城主・笠原清繁は信玄に徹底抗戦の構えを示していた。
というのも、信玄が佐久郡に進出したことで、西上野の国衆たちや関東管領の上杉憲政は信玄の上野国進出を恐れていた。 そこで彼らは信玄を抑えるべく、笠原氏を支援していたのである。

こうした中で同年7月18日、ついに信玄は志賀城攻撃のための軍を動かした。
一方、笠原氏と姻戚関係にある上野国菅原城主の高田憲頼が、一族の高田右衛門佐父子を援軍として志賀城に派遣した。

以下、『高臼斎記』や『妙法寺記』をもとに合戦の経過を示そう。

  • 閏7月9日:大井三河その他の武田先鋒隊が志賀城に向かう。
  • 13日:信玄本隊も出陣。
  • 20日:信玄本隊が桜井山城に到着。
  • 閏7月24日:武田軍が朝から志賀城の攻撃を開始。
  • 閏7月25日:武田軍が午後に城の水の手を断ち、さらに小笠原氏や山家氏(やまべ)などの援軍が武田に加勢する。
    これ以後、笠原はなんとか持ちこたえながら、上杉憲政に救援を求める。
  • 8月頭頃:金井秀景率いる上野国からの笠原救援軍が浅間山麓の小田井原(北佐久郡御代田町)に布陣。
  • 6日:板垣信方甘利虎泰・横田高松・多田三八ら武田別働隊が迎撃し、敵将14~15人と雑兵3千を討ち取る。(小田井原の戦い)
    この後、武田勢は討ち取った上野軍の首級を志賀城の周囲に並べ、城兵の士気を喪失させる。
  • 10日:正午ごろに外曲輪が焼かれ、深夜には曲輪も焼かれる。
  • 11日:笠原父子や高田右衛門佐父子ほか、城兵300余人が討死し、城は陥落となる。

志賀城の陥落は悲惨にも、城兵のほとんどが戦死したようである。

戦後、信玄は諏訪を経由して8月22日に甲府へ戻った。
これにより、信玄の佐久郡制圧はほぼ達成されたのであった。

信玄、小県郡へ侵入「上田原の戦い」

信玄は佐久郡を制圧したことにより、これと隣接する小県郡を支配する村上氏との戦いが避けられない状況となった。

村上氏は、更級郡から興った清和源氏の流れを汲む信濃の旧族であり、室町期には本拠を埴科郡の葛尾城に移し、埴科・更級・高井・水内の各郡を所領とした北信濃最大の勢力である。

同族には高梨氏・井上氏・綿内氏・室賀氏・清野氏などがおり、この頃の当主・村上義清はその盟主として信濃守護・小笠原氏とも肩を並べるほどであった。さらに義清は、海野一族が支配していた小県郡にも進出し、海野一族を他国へ追いやっていたのである。

こうした情勢の中、天文17年(1548)正月18日、信玄は「信州が思い通りになったら、働きに応じて所領を与える」旨の朱印状を諸将らに与えて士気を鼓舞すると、2月1日には村上方の本拠・坂木(埴科郡坂城町)をめざして出発し、深雪を冒して小県郡へ侵入した。
翌2日には、小山田出羽守信有の郡内勢も出陣し、やがて武田勢が上田原(上田市)に陣を敷くと、一方の村上勢も坂木を出発して千曲川を挟んで武田の軍と対峙することになった。

そして14日にはついに開戦、両軍が入り乱れての激突となったが、結果は地の利を活かした村上勢が武田勢を破り、信玄にとって初の敗北となった。
この大敗で武田軍は板垣信方、甘利虎泰、初鹿野伝右衛門尉、才間河内守など名のある武将が討死してしまった。

すぐに退却しない信玄

信玄自身も負傷したが、しばらく本陣に踏みとどまって退却しようとしなかった。

武田軍の敗戦の報は翌15日に諏訪上原城の駒井高白斎のもとに届いたが、その後も信玄が帰陣しないため、19日には高白斎が今井相模守と相談し、信玄の母・大井夫人に使者を遣わして敗戦の事情を伝えた。
そして、大井夫人の説得もあって、ようやく信玄は諏訪・上原城に引き揚げたが、それは敗戦から20日余り過ぎた3月5日のことであったといい、同26日に甲府へ帰還したという。

--なぜすぐに退却しなかったのか?

当時は、”合戦終了後に先に戦場を去った方が負け” との評価をうける通念があったため、信玄は "負け" とならないように本陣に留まったものとみられる。
信玄が大敗したのは疑いないが、村上勢に追撃される恐れがある中で、信玄が本陣に留まる余裕をもっていたのも事実なのである。

この大敗によって反武田勢力の勢いが強まり、信濃の武田領が一部奪還されるなど、信玄の信濃経略は一時的に後退することになる。


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