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「塩尻峠の戦い」に大勝。佐久郡は再び平定へ
──天文17-18年(1548-49年)

天文17年(1548)2月の上田原の戦いでの敗北により、武田方から離反する者が続出することになり、村上氏や小笠原氏をはじめとする信濃の反武田勢力が武田氏から所領を奪還する絶好の機会となった。

上田原で村上義清に大敗し、混乱する武田領

実際、同年4月3日に高遠頼継が出奔している。(『高白斎記』)

また、4月5日には諏訪郡で村上義清・小笠原長時・安曇郡の仁科氏のほか、武田方から離反した長時の妹婿・藤沢頼親が乱入してきて放火している。
これは4月15日が諏訪上社の御柱引きの祭であり、諏訪下社の宮移りの祭礼の日であったため、祭の前をねらって撹乱工作に出たものらしい。ちなみに御柱引きの祭は、武田氏の援助で無事に行なわれたが、「乱入のため、参加者がいなかった」(『神使御頭之日記』)という。

一方で佐久郡においても武田に背く佐久国衆が相次ぎ、4月25日には村上軍が佐久郡の前線基地・内山城を放火して過半を焼き、前山城も佐久国衆に奪還されてしまった。

信濃守護・小笠原氏との関係

さて、ここで少し小笠原氏について触れておこう。

実をいうと、小笠原氏は武田氏と同族で、甲斐源氏の祖・清光をルーツとし、清光の三男遠光の子・長清が甲斐国巨摩郡小笠原郷を継いで小笠原氏を称したのがはじまりである。
室町時代に信濃守護となってから代々守護職を務め、多くの分家を輩出する等して、戦国期においても小笠原氏は信濃守護として筑摩・安曇2郡を支配する名家であった。

かつて箕輪城の藤沢頼親が高遠頼継に通じて信玄に背いた3年前(天文14年)、長時は頼親を支援するために竜ヶ崎城に出陣しているが、敗戦して自領へ退却した際に武田勢に塩尻まで侵入されて領地を荒らされている。

長時にとって、小笠原領と隣接する諏訪郡を諏訪氏から強奪した信玄は大きな脅威であり、因縁の敵であったのだ。

vs 小笠原氏「塩尻峠の戦い」

話を元に戻そう。

6月10日には、諏訪郡から武田氏を追い出したい長時が再び諏訪下社に攻め入ったが、このときに下社の地下人らがこれを迎撃して、騎馬17、雑兵100余人を討ち取り、長時も手傷を負っている。
これは諏訪下社の宮移りの祭を妨害したために神罰を受けたのだと噂されたらしい。

長時が2度にもわたって諏訪郡を攻めたのは、上田原の戦いのときに諏訪郡の郡代・板垣信方が討死していて動揺が大きかったからである。

7月10日には、西方衆といわれる諏訪地域の地侍が長時に呼応し、諏訪に乱入して大混乱となったようだ。
このとき、諏訪上社長官の守矢頼真や千野氏など、武田と誼を通じている者らは上原城に逃げ込んでいる。(『守矢頼真書留』)
また、長時も西方衆の動きに合わせて、塩尻峠まで出陣して待機していた。

翌11日、反乱の知らせを聞いた信玄は、ただちに甲府を出発した。ただ、18日までは甲斐と信濃の国境に位置する大井の森(北巨摩郡長坂町)に留まり、慎重に諜報活動をしていたとみられる。
その日のうちに諏訪の上原城へ入るが、翌19日の早朝、塩尻峠の小笠原陣営を急襲した。

小笠原勢は油断しており、誰一人として武具をつけておらず、しかも過半は就寝中で敵と立ち合うことすらできない有様でだったという。

この戦いで武田勢が圧勝となって、小笠原勢は1千余人が討死したといい、長時は命からがら居城へ逃げ帰っていった。 このとき、信玄は別働隊を出撃させて長時を追撃させており、松本平に侵攻させている。

一方、信玄は残敵を掃討したのち、25日に諏訪上原城に引き揚げたのであった。

なお、長時の妹婿・藤沢頼親は、後述の佐久郡前山城を攻めた際に従軍していることから、再び信玄に降伏して服属したとみられる。

佐久郡の再平定

塩尻峠で大勝利した信玄は、ただちに失地回復に向けて佐久郡の再平定に動き出した。

8月18日に小山田出羽守が田口城を攻めているが、このときは逆に敵に囲まれてしまったという。(『妙法寺記』)
また、9月には佐久郡前山城を奪還するが、以下に『高臼斎記』『妙法寺記』を元に経過をまとめてみた。

  • 9月6日:信玄、諏訪を出発して前山城をめざす。
    以後、進路を八ヶ岳南麓にとり、谷戸(北巨摩郡大泉村谷戸)→海ノ口(南佐久郡南牧村)→宮ノ上(同郡臼田町)→臼田(同郡臼田町)へ。
  • 11日:武田軍が臼田を出発し、大雨の中で前山城を陥落させ、数百人を討ち取る。これに付近の城13城が恐れを成し、城兵らは逃亡して無血開城となる。
  • 12日:武田勢が佐久郡の大将たちを打ち破り、五千人ほどの首を取り、無数の男女を生け捕りにする。
  • 21日:信玄が新たに前山城の普請を開始させる。
  • 28日:信玄、諏訪上原城に帰還。

なお、10月4日に信玄は小笠原氏討伐の拠点として、小笠原の本拠・林城の南8キロほどの場所に村井城(松本市村井町)の普請を開始している。

天文18年(1549)も引き続き、信玄は以下のように佐久郡の侵略を行なっている。

  • 8月23日:諏訪郡・高島城を出馬。
  • 26日:佐久郡・桜井山城(臼田町)に入る。
  • 28日:御井立に放火。
  • 9月1日:鷺林(佐久市常田)に陣を敷く。
  • 04日:平原城(小諸市)に放火。
  • 21日:甲府へ帰還する。

このように失地回復に向けて軍事行動を続けた信玄は、その過程で望月氏や依田氏などの有力な一族を帰属させ、同年中は佐久郡の再平定をほぼ終えたのである。

なお、同年には同盟を結んでいる今川義元の仲介によって、村上義清との講和交渉も行なっており、一時的とはいえ、武田氏と村上氏との戦いは停戦状態となった。


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