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【信玄連載】第9回:信濃経略は大詰め、小笠原・村上両氏の没落(1551-53年)

砥石城の攻略

天文20年(1551)5月26日、前年の砥石崩れによる敗戦をすすぐかのように、真田幸綱があっさりと村上氏の支城・砥石城を陥落させた。
これは小県郡真田町出身で智略に優れていた幸綱が、砥石城周辺の地形や小県郡の国衆に精通していたため、勧誘工作による内応者の手引きによって落城させたとみられている。

以後、信玄の小県・佐久郡方面の制圧が優位になる一方、村上氏の版図は崩れ落ちていったため、幸綱の果たした役割は非常に大きかったといえる。
なお、同年7月には、佐久郡で唯一抵抗していた岩尾城(佐久市岩尾)の岩尾弾正が信玄に降り、若神子まで出仕している。

小笠原長時の没落

続いて信玄は筑摩・安曇郡の経略を再開させ、同年から翌年にかけて小笠原長時の追撃作戦に出た。

同年10月に信玄は平瀬城を陥落させているが、この城は前年に小笠原長時と村上義清が連合して、武田方の深志城攻略のための足がかりにした城である。

以下、武田軍による平瀬城攻略の経過である。

  • 10月14日:村上義清が仁科氏の安曇郡・丹生子城を陥落させたという報が甲府に届く。
  • 15日:信玄が甲府を出陣。
  • 20日:信玄が深志城に到着。
  • 24日:信玄が平瀬城を攻略し、敵204人を討ち取る。
  • 28日:平瀬城の "城割り"(=城破壊の儀式)を行なったのち、その上に鍬立式を行なって改修を開始。

戦後、信玄は平瀬城の城代として原虎胤を入れた。
なお、平瀬城陥落の3日後の10月27日に、信玄は小岩岳城(南安曇郡穂高町小岩岳)の城下に押し寄せて放火したが、本城は攻めずに引き返している。

小岩岳城を攻略

小岩岳城は小笠原氏の最後の拠点であり、信玄は翌天文21年(1552)7月27日に甲府を出発し、8月12日にこれを攻略したと伝わる。
このとき、小岩岳城主は自害し、さらに城兵500余人が討死しており、婦女子は捕虜になったらしい。

小笠原長時は安曇郡から村上義清のもとに逃れるが、義清も没落したことで、次に下伊那郡にいる実弟・小笠原信定を頼っていった。その後、下伊那も信玄に攻略されると、縁戚関係にある幾内の三好長慶を頼ったという。(『溝口家記』)
なお、長時は村上氏ではなく、越後の長尾景虎(=のちの上杉謙信)を頼って亡命したとの説(『二木家記』)もあるが、これは事実ではないらしい。

いずれにしてもこの時点で小笠原氏は没落し、信玄は筑摩・安曇郡の経略をほぼ終えたのであった。

村上義清の没落

信濃経略における大きな敵を村上義清のみとした信玄は、翌天文22年(1553)に入ると、いよいよ義清と決戦を行ない、ついには越後の長尾景虎のもとへ追いやってしまう。

以下に信玄が義清を越後に追いやるまでの一連の流れをみていこう。

まずは同年の正月28日、信玄は内山城代・小山田昌辰に書状を送り、「来月6日に嫡男義信とともに信濃へ出兵するが、それはあくまで砥石城再興のための出陣である」旨を、触れるように命じている。(『諸州古文書』)
ただ、実際には以下のように、3月から出陣して4月9日に一時的とはいえ、村上氏の本拠・葛尾城を占領する。

  • 3月23日:信玄が出陣して深志城へ向かう。
  • 29日:朝に深志城を出発し、正午頃に苅谷原(東筑摩郡四賀村)に到着。
  • 30日:苅谷原城の近辺に放火。
  • 4月2日:苅谷原城を陥落させ、城主太田長門守を捕虜にする。夕方には塔ノ原城(東筑摩郡麻績村)も戦わずして陥落。
  • 3日:会田の虚空蔵山城(東筑摩郡四賀村)へ放火し、苅谷原城を破却して新たな城の普請のために鍬立を行なう。
  • 6日:武田の先陣12頭(12人の将に率いられた12の隊)が葛尾城(埴科郡坂城町)の攻略に向かう。
  • 9日:午前8時頃、城が戦わずして陥落、義清は敗走を余儀なくされる。

上記の過程で、屋代城の屋代氏・塩崎城の塩崎氏・坂城の大須賀氏らが相次いで武田方に寝返るなどしており、義清敗走後には新たに室賀氏・小泉氏・高坂氏などの諸士が武田方に帰属している。

更科郡・八幡の戦い

しかし、一旦は敗走した村上義清も、3日後には反撃に転じており、再び葛尾城を奪回している。(八幡の戦い)

  • 4月12日:武田先鋒隊が続けて川中島方面へ進軍するが、態勢を整えた村上軍と八幡付近で遭遇して敗れる。
  • 23日:村上方に葛尾城を奪回される。(『高白斎記』)

なお、このときに義清が越後の長尾景虎へ援軍を要請し、長尾勢が援軍に加わっていたというが、定かではないようだ。

村上義清が越後へ亡命

この後、信玄は村上軍との決戦を避けて撤退し、深志城を経由して5月までに甲府へ戻るが、一方で村上義清はこの隙に小県郡の坂木・和田・塩田方面を奪回して塩田城(小県郡)に入城していた。

だが、7月から陣を整えた信玄が再び出陣し、義清の籠もる塩田城へ向けて村上方の諸城に猛攻を加えながら進軍していった。

  • 7月25日:信玄が甲府を出陣。
  • 28日:内山城へ着陣。
  • 30日:望月の古城に着陣。
  • 8月1日:長窪に着陣し、和田城を陥落させる。
  • 4日:高鳥屋城・内村城を陥落させる。
  • 5日:村上義清の本拠・塩田城も陥落。

このとき、信玄の快進撃によって16もの村上方の諸城が攻略されたといい、塩田城も陥落して義清は行方をくらましており、このときに越後に亡命したとみられている。

信玄はこの後、飯富虎昌に塩田城の守備を任せ、村上方から奪取した小県郡の所領を真田・室賀・小泉・浦野・禰津氏らに与え、さらに川中島南部に進軍していった。

こうして川中島合戦が勃発することになる。


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