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【信玄連載】第10回:宿敵、謙信の登場と甲相駿三国同盟(1553-54年)

天文22年(1553)8月、ついに天敵であった村上義清を追い出した信玄であるが、義清が頼ったのは越後の長尾景虎、すなわち、のちの上杉謙信であった。

この頃の謙信は24歳で、既に国主として2年前に越後国統一を成し遂げていた。
そして義清をはじめ、北信の国衆から頼られた謙信は、ついに信玄討伐を決意し、自ら軍を率いて越後から信濃の川中島へと兵を進めてきたのである。

ここに川中島を舞台として、信玄と謙信の宿命の戦いの幕が開ける。

第一次川中島の戦い

8月中旬から下旬ごろ、川中島布施の地(長野市南部、旧篠ノ井市布施)で両軍が激突したことが明らかとなっている。(布施の戦い)
その後も武田方は長尾方に押され気味であったらしい。

  • 9月1日:武田軍は布施の南方に位置する八幡で長尾軍に撃破され、荒砥城(更科郡上山田町)も占領される。
  • 3日:筑摩郡の青柳(東筑摩郡坂北村)まで進んだ長尾軍に、ここを放火される。
  • 4日:長尾軍に虚空蔵山城(四賀村)を占領される。これに武田軍は長尾方の麻績城や荒砥城に放火する。
    その後、長尾軍が不利を悟って八幡まで兵を退き、今度は塩田城に兵を進めてくるが、武田方はこれを堅守。
  • 17日:長尾軍が葛尾城下の坂木南条(埴科郡坂城町南条)に放火し、これに信玄も塩田城から出馬する。
  • 20日:長尾軍が撤退した報が入り、信玄は軍勢を引き上げる。
  • 10月7日:信玄は朝に塩田城を出発し、夕方に深志城に入る。
  • 17日:信玄、甲府へ帰還。

謙信が撤退したのは、初の上洛予定が控えていたからだといわれる。
信玄は決戦を回避する策をとり、謙信も深追いしなかったため、両者初の川中島合戦は収束したのであった。

なお、この川中島の戦いは全5回にも渡っており、終了までに12年余りの期間を要している。

南光坊天海がみた一騎討ち

また、このときの川中島合戦かどうかは不明だが、南光坊天海がみた信玄と謙信の一騎討ちの逸話が残っているので紹介しよう。

--『川中島五箇度合戦記』ほか--

徳川家康の側近だった南光坊天海がまだ18歳の頃、信玄を訪ねたときのことである。

天海はこのころ、甲斐武田氏の祈祷師をしており、信玄にあいさつするために甲斐へ向かったが、川中島に出陣中とのことで信玄の陣所まで赴いた。

<a href='http://sengoku-his.com/shingen'>武田信玄</a>アイコン

信玄

まもなく謙信と決戦となろう。ここは危険だから、来春にあらためて甲斐でお会いしよう。

天海はいったん帰ろうとするが、翌日に思い直して再び川中島へ引き返した。夜通しで道を急ぎ、川中島近くに着いた。そして山上から戦場を眺めていると、謙信と信玄が一騎打ちしている場面に出くわしたという。
そしてその夜に天海は再度、信玄の陣所に顔をだした。

武田信玄アイコン

信玄

帰られたと思っていたら、また戻ってきたのか・・・。奇特なことだ。

そして信玄の一騎打ちをみた天海は言った。

南光坊天海

源平両家の戦いからこのかた、大将同士の太刀打ちがあったことなどこれまで聞いたこともございません。お手柄なこと、感服いたします。

南光坊天海アイコン

これを聞くと、信玄の顔色はみるみるうちに変わって不機嫌になり、こう言った。

武田信玄アイコン

信玄

・・・・謙信と太刀打ちしたのは、わしではない。

南光坊天海

!?そ、それは一体どういう・・・

南光坊天海アイコン
武田信玄アイコン

信玄

鎧兜など、わしとそっくりの影武者なのだ。これを知らぬ者はわしと思ったかも知れないが・・・
帰ってから奥羽の伊達や会津の佐竹に、わしが太刀打ちしたと言わぬように。

後年、武田の軍記物『甲陽軍艦』の中にある記述で、信玄が腰かけに座る中で、謙信が切り込んできた太刀を団扇で受けたことについて、天海は「虚言」だと力説してやまなかったという。


下伊那郡の経略

信玄は既に信濃国の過半を支配下に置き、翌天文23年(1554)からは下伊那郡の制圧に乗り出す。

下伊那の侵攻は、かねてから上伊那の別働隊が侵攻していたとみられるが、信玄自身の出陣ははじめてである。
以下に下伊那攻略の流れを記す。

  • 6月:信玄は下伊那へ向け、飯富昌景(のちの山県昌景)を先発させる。
  • 7月24日:信玄自身も、かつて下伊那の松尾城の城主であった小笠原信貴の先導で甲府を出発し、下伊那へ向かう。
  • 8月7日:鈴岡城(飯田市駄科南平)を陥落させ、小笠原長時・信定兄弟を追い出す。
  • その直後、下条信氏など多くの下伊那衆が信玄に降る。
  • 15日、神峰城を攻略し、知久頼元父子を捕える。
  • 9月30日:御射山大明神に神領を寄進し、下伊那攻略の成功を感謝する(「小池文書」)。

上述のように小笠原一族を追放し、続けて下条氏が投降してくると、多くの周辺国衆らも信玄に帰属することになった。

このようにして信玄は下伊那を攻略し、飯田城には城代を置いたのであった。なお、捕えた知久頼元父子は10月に甲斐に送られ、河口湖上の鵜の島に幽閉されたあげく、誅殺されたという。(『勝山記』)

甲相駿三国同盟の成立

さて、この年(1554)は武田家の外交においても変化がみられた。

同年の12月に、武田・北条・今川の3者間でそれぞれが互いに婚姻関係となり、甲相駿三国同盟が結ばれたのである。

三者間それぞれの同盟とはいっても、段階的に成立していったため、以下にポイントを絞り、そのプロセスを簡潔にまとめてみた。

  • もともと今川・北条の2者は姻戚関係にあり、同盟関係にあった。(1400年代後半~1536年まで)
  • これに対し武田氏は両者と敵対関係にあった。
  • 今川義元が当主になり、武田・今川間で婚姻同盟を結ぶ。(甲駿同盟、1537年)
  • 甲駿同盟では、義元が定恵院(武田信虎の娘)を正室に娶る。
  • これを機に北条氏と今川氏が手切れ、駿河東部を舞台に長期の抗争が勃発し、武田の仲介で終息(河東一乱、1537~45年)
  • 以後、三者は争うことなく、それぞれが所領拡大に努めていく。
  • 義元の正室である定恵院が死没し、武田・今川間の婚姻関係が途切れる。(1550年)
  • 武田義信(信玄の嫡男)に嶺松院(義元の娘)を娶らせ、甲駿同盟を継続させる。(1552年)
  • 今川氏真(義元の嫡男)に早川殿(北条氏康の娘)を娶らせ、今川・北条間が同盟関係となる。(駿相同盟、1554年)
  • 北条氏政(氏康の嫡男)に黄梅院(信玄の娘)を娶らせ、武田・北条間で婚姻同盟を結ぶ。(甲相同盟、1554年)

三国同盟が成立した背景には、三者それぞれが軍事面で兵力を分散させるわけにはいかなかったというのがある。

  • 武田氏:信濃国の経略に専念していたが、強敵・上杉謙信の介入で、なおさら兵を集中する必要があった。
  • 今川氏:西方への勢力拡大を進めており、尾張国・織田信秀との抗争があった。
  • 北条氏:関東管領の上杉憲政とそれを庇護する上杉謙信の他、佐竹氏や宇都宮氏など関東の諸勢力との戦いに追われていた。

「善徳寺の会盟」はウソ?

ところで、この三国同盟においては「善徳寺の会盟」と呼ばれる有名な伝承がある。(『甲陽軍鑑』『北条記』ほか)

これは今川の重臣・太原雪斎の斡旋により、武田信玄・今川義元・北条氏康が善徳寺(静岡県富士市)にて三者会談を行なったとするもので、このときにそれぞれが姻戚関係を結んで三国同盟が成立したというものである。

この三者会談の説は、小説や歴史ドラマなどでも名場面として使われるほどロマンのある話だが、残念ながら史実ではないようだ。

というのも、善徳寺の会盟を伝えている史料は、後世の編纂物のみであり、一次史料では一切触れられていない。
また、『高臼斎記』には武田・今川間の婚姻時期、および、武田・北条間の婚約は、天文22年である。


つまり、信憑性の高い史料に記録がなく、かつ、同盟締結の時期が史実と食い違っているのである。


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