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2度目の川中島と木曾郡の制圧(1555-56年)

天文23年(1554)12月、武田・北条・今川の三者による三国同盟が成立した同時期、信玄は越後の長尾景虎(=のちの上杉謙信)との戦いに備え、北信(=川中島地域)の諸将だけでなく、謙信の家臣へも調略の手を伸ばしていた。
かねて内応の意を示してきた越後国刈羽郡の北条高広のもとに甘利昌忠を派遣し、反乱を起こさせたのである。

ちなみに、この反乱は翌天文24年(弘治元、1555)に謙信に攻め込まれ、信玄からの援軍を得られず、2月に降伏となっている。

第二次川中島合戦

積雪の時期で謙信が身動きできないのに乗じて、信玄は以後も北信地域の制圧を進めていった。

同年3月21日付けで、信玄は家臣の大日方入道・主税助らに感状を与えているが、これは彼らに安曇郡千見(北安曇郡美麻村)を占領させて、糸魚川方面からの越後勢の侵略に備えさせたことによるものである。

さらに、信玄は同じ頃、善光寺別当の栗田氏も寝返らせている。
このころの善光寺別当職は、大御堂主の里栗田家と小御堂主の山栗田の両家があったが、信玄は小御堂主の山栗田家を調略によって味方につけたのである。

謙信が出陣

このような事態に謙信は当然のごとく、信玄を放っておけるはずもなかったであろう。
危機感を抱いた謙信は雪解けを待ち、ようやく4月に善光寺へ出陣した。

これに対する信玄は、旭山城に籠城する栗田氏を支援するため、援軍3000人と弓800張、鉄砲300挺を送って謙信に対抗させたという。(『勝山記』)
そして自らも4月末には出陣し、犀川を隔てた大塚(長野市青木島町)に着陣して、謙信の軍勢と対峠したようだ。

一方の謙信も、旭山城の向かいに葛山城を構築して対抗しようとしたという。
実際に両軍が衝突したのは、7月19日であり、謙信の軍勢が犀川を渡って交戦となったものと推測されている。

ちなみに具体的な日時はわからないが、同盟関係にある駿河の今川義元が援軍を武田方に送り込んでいる。

なお、武田軍は川中島と同時並行で、8月に木曽郡へも攻め込んで制圧しているが、詳細は後述する。

長期滞陣で両軍とも疲弊

短期決戦の謙信に対し、信玄は長期戦に持ち込んだようであり、戦線が膠着状態となって200日にも及ぶ長期滞陣となったといい、両軍ともに人馬ともに疲弊し、士気は低下したという。

信玄は以下のように、対陣中に知行地の約束などをしており、士気の鼓舞を図っていたことがうかがえる。

  • 9月10日:諏訪上社・神長官の守矢頼真に、怨敵退散の祈願を依頼。
  • 25日:水内郡漆田郷(長野市)の社領を安堵。
  • 10月5日:7月の戦功の賞として、小島修理亮と同心7人に、高井郡高梨のうち河南1500貫を与えると約束(『歴代古案』三)。

一方で謙信も、信濃在陣の諸将に、「対陣が何年に及ぼうとも在陣する」や「陣中での喧嘩は成敗とする」ことなどの誓紙を提出させている。

今川の仲介で和睦

両軍のこうした状況は、信玄が今川義元に調停を依頼したことで、決着がついた。

閏10月15日に以下の条件で講和が成立し、両軍がそれぞれの勢力を侵すことのないように誓詞を交換して撤兵帰国することになったのである。

  • 武田方の旭山城を破却すること。
  • 井上・須田・島津氏ら北信の諸士を本拠へ帰国させること。

これは武田方が起案し、内容としては信玄が譲歩したものであり、謙信もこの条件には満足していたようである。

なお、この講和条件により、井上・須田・島津・市川氏らの北信の本領復帰が実現したのであるが、村上義清に関しては本領・坂木への復帰は実現していない。
村上領はもはや完全に武田領となってしまっていたからであり、謙信もこれに関しては口出ししていないという。

ちなみに、この戦いに際して出された信玄の感状は10通知られるが、謙信のものは1通しかないため、武田方が優勢だったことがうかがえる。

木曾郡の制圧

実はこの第二次川中島合戦での滞陣中、信玄は同時に木曾郡への侵略を行なった。

源義仲(木曾義仲)の末裔と称する木曽氏は、木曽谷(信濃国木曽郡全域)を領した信濃国衆であり、信玄の信濃経略に対しては、かねてから府中の小笠原長時と手を組んで抵抗していた。
しかし、小笠原氏の没落後は孤立し、前年(1554)に武田軍が下伊那を侵攻した際には、下伊那に加勢することなく中立を保っていたとされる。
また、武田軍にたびたび塩尻峠から侵略を受けており、この頃(=1555年)には既に鳥居峠の手前・奈良井宿まで制圧され、さらに下伊那郡が武田領となったため、南北から挟まれる情勢にもなっていたのである。

こうした中、信玄は第二次川中島での滞陣中の8月に木曾郡へ攻め込み、主力を投入して短期間のうちに木曽義康・義昌父子を降伏・開城させて制圧したらしい。
ここでいう主力に信玄本隊が含まれているかどうかは不明だが、9月10日に信玄本隊が主戦場の川中島にいたことはわかっている。

木曽郡制圧後、木曾義康の娘は人質として甲府へ送られ、さらに木曽義昌は信玄の娘を娶ることになった。
つまり、木曾氏は武田一門に組み入れられたのであり、川中島合戦の和睦の翌11月には、義康・義昌父子が甲府に出仕して信玄に臣従の礼をとっている。

この時点で信玄の信濃経略は、北信の一部を除き、おおむね制圧完了となったのである。

再び北信の経略をすすめる信玄

謙信と和睦して北信の諸豪族らに旧領を返還した信玄だったが、北信制圧に対する野心は並々ならぬものだった。
というのも、和睦からわずか5カ月ほどしか経たない弘治2年(1556)3月に、さっそく落合一族の菩提寺・静松寺の住持を介して、一族の者を内通させている。
落合一族は謙信方として善光寺の裏を支配し、葛山城の城将も務めていたが、信玄はこれを切り崩しにかかったのである。

謙信の出家騒動中に、大熊朝秀を調略

一方で同じ頃、謙信は突如隠退して出家すると表明し、やがて居城・春日山城を出て行ったという。

この謙信の出家騒動は有名な話だが、信玄はこれに乗じて謙信の家臣・箕冠城の大熊朝秀を調略で寝返らせており、さらに同年8月には謙信方の北信の拠点・尼飾城(長野市松代町)の攻略を家臣の真田幸隆に催促し、まもなく同城を陥落させている。

ちなみに、同じ8月には謙信が家臣の説得で越後に戻り、同23日には軍勢を派遣して大熊朝秀を越中へ敗走させている。

このように、信玄は謙信との和睦を無視して着々と北信制圧に向けて動いていたのである。

川中島?での対陣の逸話

さて、ここで同年(1556年)における武田信玄と上杉謙信が対陣していたときの逸話(『名将言行録』)があるので紹介しておこう。ただし、同年には信玄と謙信は対陣していないはずなので、前年か翌年の川中島でのことかと思われる。

※『名将言行録』より

家臣アイコン

武田家臣(偵察隊)

御屋形様!!こたびは謙信は長陣のようすであります!

武田信玄アイコン

信玄

なぜそう思うのだ?

家臣アイコン

武田家臣(偵察隊)

はっ!おそれながら申し上げます。敵の陣にはたくさんの薪が積んでありました。

武田信玄アイコン

信玄

なに!?

これを聞いた信玄はすぐに使番に命じた。

武田信玄アイコン

信玄

よいか!やがて謙信の陣に火事が起きるだろう。そのときはこちらからは1人も出ていってはならぬ!

もし命に背く者があれば、その者とその一族も含めて処分すると伝えよ!!

家臣アイコン

武田家臣(使番)

ははっ!

-- ある日の晩 --

上杉陣営では・・・

謙信

これから積んだ薪に火をつける。そして草むらに伏せて武田勢を待つのじゃ!

上杉謙信アイコン

上杉謙信の家臣たち

よし、これで武田を成敗じゃ~~。がやがやがや・・・

家来アイコン

こうして、信玄のいったとおりに謙信の陣から火事が起きたのである。

そのころ信玄は櫓にのぼって遠くの上杉陣営を眺め、火事の様子をみていた。

武田信玄アイコン

信玄

・・・・・・。

(やはりな・・。謙信め、このわしがそうやすやすとそのような策にかかるものか!)

謙信

(・・どうやら信玄に気づかれたようだな。)

上杉謙信アイコン

やがて火事がおさまると、上杉方の兵5、6千ほどが武器を持って草の中からでてきた。これは謙信が早期に決着をつけたかったための策だったのである。

家臣アイコン

武田の家臣たち

上杉方の計略!?あぶなかった。さすが御屋形様じゃ~、がやがやがやがや・・・・

こうして武田勢は策を回避することができ、家臣らは信玄の洞察力に恐れ入ったのであった。


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