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【信玄連載】第12回:川中島地域の掌握と信濃守護への就任(1557-58年)

第三次川中島合戦

第二次川中島合戦での和睦以降、武田信玄上杉謙信の両者は休戦状態にあったが、弘治3年(1557)に入って信玄がこれを反故にした。
信玄は同年2月15日、越後が深雪であることをいいことに、事前に内応者を作っておいた謙信方の葛山城を陥落させたのである。

これにより、信玄は善光寺を掌握し、さらに同時期に高井郡の井上・市川氏を帰属させることにも成功し、北信地域の制圧を再び大きく前進させた。

だが、この侵略に謙信が見過ごすはずもなく、信玄と謙信の3度目の川中島対決が訪れるのは必然であった。

謙信の出陣

信濃への出陣を決意した謙信は、葛山城の陥落となった翌2月16日付けで、家臣の色部勝長に葛山城救援のための出陣を要請(『上越市史』)したが、勝長が出陣しなかったため、のちに重ねて出陣要請をしている。
謙信方の島津忠直は本領の長沼城を捨てて難を逃れ、次いで飯縄社は信玄に降り、戸隠社の三院の衆徒らは越後へ逃れた。

信玄は3月14日、水内郡の木島・原氏らに対して近いうちに甲府から出陣する旨を伝えており、また、同28日には飯縄権現(=飯縄山への山岳信仰が発祥とされる神仏習合の神のこと。)の神主・仁科氏に対して安堵状を出し、武運の長久を祈らせている。

この間、武田軍が高梨政頼の飯山城へ迫ってきたため、謙信は高梨氏からしきりに援軍要請を受けて出陣しようとしていたようだ。 ただ、雪のためにすぐの出陣が叶わず、ようやく出陣して国境を越えて信濃入りしたのが4月18日であり、山田の要害(上高井郡高山村)や福島(須坂市)を武田方から奪取して、同21日に善光寺に陣した。
続いて謙信は葛山城を攻め、同25日には先に破却していた旭山城(長野市)を再興して本陣とした。

なお、信玄本陣の場所ははっきりしていないが、深志城と推測されている。

信玄、対戦を避ける

これに対し、信玄は謙信との決戦を避けて川中島から兵を引き、北安曇郡の国境付近の諸城を侵略したようである。

一方で謙信は信玄と戦えず、飯山城へ引き返した。
謙信軍は5月12日には高坂(上水内郡牟礼村)を攻めて近辺に放火し、続けて翌13日には坂木・岩鼻(埴科郡坂城町)まで攻めたが、武田軍は衝突を回避して遠巻きにしていたという。(『上越市史』)

6月に入り、謙信は飯山城に本隊を移し、野沢の湯(下高井郡野沢温泉村)に兵を進め、市川藤若を攻めた。このため、市川氏は信玄に援軍を要請しており、これに対して信玄も6月16日と23日の2度に渡り、援軍派遣に関する内容の書状を送っている。
なお、2度目の書状には、口上の使者を務めた者として、実在を疑問視されていた山本勘助の名が残っており、正確な史料として山本勘助が登場するのはこの1点のみという。

こうした中、謙信は市川氏の攻略を断念して飯山城へ引き返している。

上野原での対戦

7月初旬、信玄は安雲郡から善光寺へ移動し、春日氏・山栗田氏を投降させ、東条城の小山田虎満に油断しないように指示。また、このころに謙信方の飯森春盛らが守備する小谷城を陥落させている。

そして、8月29日に上野原で両軍がついに衝突。
戦いの詳細は不明だが、本隊の衝突はなく、前線部隊の局地的な小競り合いがあった程度で双方に甚大な被害はなかったようである。
なお、上野原の位置については諸説あるが、上水内郡長沼(長野市)の説が有力とされている。

この後、9月に謙信が越後へ、10月に信玄が甲府へ帰国し、第三次川中島の戦いは終了したのであった。

この戦いの結果、信玄は安雲郡を掌握し、高井郡に関しても高梨氏を飯山城まで後退させ、川中島をほぼ掌握することに成功した。 一方の謙信は、打倒信玄という目的を果たせず、特に目立った成果もなかった。

信濃守護へ就任する信玄

第三次川中島の戦い以降、しばらくの間、信玄と謙信の争いは小康状態となる。

というのも、その背景には13代将軍義輝の調停工作があった。
この頃の中央政権は、三好長慶が管領の細川氏綱とともに実権を掌握しており、かつて中央政権を牛耳っていた細川晴元は、13代義輝とともに京を追われていた。つまり、晴元と義輝は京都奪回のために三好氏と対立していたのである。

こうした中、義輝は諸大名らの支援、とりわけ謙信に期待して京都の回復をもくろんだ。

謙信と信玄の両者にはじめて御内書(=将軍が発給する書状)が届けられたのが、第三次川中島の最中の同年6月であり、 将軍からの和議の働きかけに対し、謙信は承諾したが、信玄は条件として信濃守護職補任を求めたようである。
なお、信濃守護職はこれまで小笠原氏が任命されていたが、信玄が小笠原長時を追いやっていたことから実際には空きとなっていた。

信濃経略を止めない信玄

永禄元年(1558)にも、両者に和睦調停の御内書がたびたび届けられているが、どうやら信玄は信濃への軍事行動を継続させていたようである。

信玄が信濃守護職を得た直後の8月には、戸隠神社に願文を捧げ、修理料を寄進して戦勝を祈らせた。(『戸隠神社文書』)
このとき、信濃に居を移すことと、越後勢との戦いの可否を占ったらしく、結果は「信濃への移転 =信濃は制圧」「越後勢 = たちまち滅亡」などと出たという。

信玄は軍事行動の件で、将軍義輝から使者を通じて詰問されていたようであり、同年11月付けで信玄から義輝側近に宛てた書状で弁明している。
主な内容はおおむね以下のとおりだ。

  • 去年(1557)甲越和睦の御内書を頂戴したとき、自分(=信玄)はすぐに軍事行動を止めたが、謙信は承諾前に信濃海野を放火した。
  • これは事実であり、その報復で越後を攻めたことは、少なくとも上意を軽視したことにはならない。
  • 夏(1558)の越後攻めで、お咎めを受けたのは心外だ。
  • 自分は夏に信濃守護補任の内書をいただいている。だから信州は他人の干渉を許すべきでない。
  • だが、謙信は以後も2度にわたって信州に侵入して放火している。これこそ上意に背いたことだ。
  • 重ねて越後を攻めた理由は、夏の越後攻めで越府を破却予定だったが、使僧(将軍からの使い)が甲府へ下向するとの連絡を受けたので、上意を重んじて破却せずに帰陣した。
  • そして使僧の悦西堂に対し、自分は信濃守護に補任された以上、侵略者は景虎(=謙信)だから、和睦破棄のことは越後側を問責してほしいと言ったところ、使僧も承知して越後へ下向した。
  • しかし、謙信は是非も正さずに使僧を押し返した。これまた上意への逆心であろう。

上記をみると、信玄は信濃守護職に就いたことを信濃出兵の大義名分にしているのがわかる。

ちょうど同じ頃、京都では義輝と三好長慶との間に和睦が成立して義輝が帰京したことで、この調停問題は収束することになった。


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