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信玄の出家と謙信の関東出兵(1558-61年)

出家して「信玄」と号す

第三次川中島合戦で善光寺(長野県長野市)を掌握した信玄は、永禄元年(1558)に信濃守護職を得たのち、同年9月には善光寺の本尊・阿弥陀如来像を甲府へ移し、10月には甲府に新たに善光寺の普請を開始していた。

なお、この頃は13代将軍義輝から和睦調停の御内書がたびたび届けられていたため、上杉謙信との戦いは小康を保っていた時期だったが、信玄は調停を無視して北信攻めを継続していたことは前の記事で述べたとおりである。

甲府の善光寺は、翌永禄2年(1559)には完成して2月16日に入仏式が行なわれており(『王代記』)、甲斐国中の貴賎上下の男女が、善光寺如来の甲府到来を喜んだと伝わる(『塩山向岳禅庵小年代記』)。

また、『甲斐国志』によれば、同2月に信玄が出家したといい、長禅寺住職の岐秀元伯を導師として出家して「徳栄軒信玄」と号したという。出家の動機は、信濃守護に補任されたことや、信濃経略がほぼ完了したこと等がきっかけではないかと考えられているが、定かではない。

謙信が上洛、その間に信玄は・・・

一方、謙信は2月20日、将軍義輝から信玄との和睦に同意したことを賞されたという(『上杉家文書』)。
そして2度目の上洛となった4月~10月の間、謙信は将軍足利義輝や正親町天皇に拝謁し、また、関白近衛前嗣と打ち解けあって彼を関東公方に迎える約束等していた。

この間、信玄は依然として北信への攻勢を継続していた。
信玄は5月に佐久郡の松原神社に願文を納め、信州奥郡ならびに越後の境での戦勝を祈願しており、6月には信越国境にまで乱入している。なお、このときの願文には「釈信玄」の署名があり、これが「信玄」という名の初出の史料である。

関東管領の権威

謙信の上洛の目的のひとつは、関東管領の職に就くことを幕府に認めてもらうことであった。
既にこの頃、関東管領の上杉憲政は、北条氏康に追われて謙信の庇護下にあり、謙信は関東管領の職と上杉の姓を譲られる旨の申し出を受けていたのである。

上洛により、謙信は将軍から三管領や足利将軍家に準ずる特権を与えられ、関東管領へ任命された。これは関東出兵、つまりは上杉憲政を追いやった北条氏の討伐の大義名分を得たということでもあった。

10月に上洛を終えて京から帰国した謙信は、関東管領に任命されたことを宣伝し、11月13日には村上義清・高梨政頼らなどの信濃国衆らから祝儀の太刀を献上されている。(『上杉家文書』)
なお、太刀を持参した者の中には、明らかに武田方に属する信濃国衆も多くいたことから、関東管領の権威がうかがえる。

信玄は、上洛後の謙信の信濃出兵に備え、事前に越中の神保長職と通じて謙信が信濃へ出陣した際には背後を突くように約束していたようである。時期ははっきりしないが、神保長職に攻められていた椎名氏が、謙信に援軍を要請していたようだ。
そして永禄3年(1560)3月、謙信は越中に出陣し、富山城・増山城を続けて陥落させて神保長職を追放しているのである。

なお、時期は定かでないが、信玄は6月に海津城を築城し、高坂昌信を城代として置いて川中島の統治をより強固なものとしている。

謙信の関東出兵と信玄の動き

やがて8月に入ると、上杉憲政や佐竹義昭らの要請により、謙信がついに関東へ出陣。
謙信の軍勢は上野国へ侵入すると、沼田城を陥落させるなど、次々と北条方の諸城を攻略して厩橋(前橋市)まで進出、これに対して北条氏康も武蔵国の松山(埼玉県東松山市)まで進んだのであった。

一方の信玄は、同盟相手の氏康から謙信を牽制するよう要請されており、9月に出陣して信濃佐久郡松原社に願文を納め、亀蔵城を10日以内に自落退散させるよう祈願したという。
また、10月には謙信が留守中の越後国をねらい、信玄は本願寺顕如と連絡をとって加賀・越中の一向宗門徒に越後侵入をねらわせている。

信玄と本願寺顕如の関係は、信玄の継室の妹(= 三条公頼の三女)が本願寺顕如の妻という、縁戚関係にあった。
この策謀の背景として、加賀・能登・越中の一向宗徒が謙信の祖父・長尾能景の仇敵であったため、上杉家(長尾家)は一向宗を禁止していたのがある。

また、『甲陽軍鑑』によると、信玄の従兄妹・勝沼信元が上杉方に内通したため、11月3日、信玄は山県昌景に命じて彼を誅殺したらしい。

謙信、山内上杉家と関東管領職を相続

厩橋城を関東における拠点として、同城で越年した謙信は、永禄4年(1561)2月に越後から直江実綱を呼ぴよせて陣容を強化すると、同年3月には大軍を率いて南下し、ついには北条氏の本拠・小田原城を包囲するまでに至った。(小田原城の戦い)

この快進撃に関東諸将らも謙信のもとへ結集し、謙信の軍勢は大軍となっており、北条氏康も籠城せざるを得なかった。
だが、堅固な小田原城は陥落せず、氏康も城を出てこなかったため、謙信は兵を引いて鎌倉へ向かうことになった。

そして閏3月16日、謙信は鶴岡八幡宮に参詣し、上杉憲政の養子となって山内上杉家の相続と、関東管領の就任を宣言し、ここに上杉氏を称すことになった。

一方、信玄は謙信を牽制すべく、少々の援軍を小田原城に送るとともに、4月には碓氷峠を越えて上野国の松井田に侵入し、放火などの撹乱工作を行なった。
また、5月には北信濃に出兵し、割ケ岳城(信濃水内郡)を陥落させ、越後国境を脅かしたようだ。

こうした情勢から、謙信はやむなく関東遠征をとりやめ、6月末には越後へ帰国。そして、まもなくして川中島最大の激闘がはじまることになる。

「わしは謙信を恐れたわけではない!」

なお、この関東遠征に関する信玄のエピソードがあるので、以下に紹介しておこう。

※『名将言行録』『甲陽軍鑑』より

永禄4年(1561年)3月、上杉謙信が大挙して北条氏の本拠・小田原城にまで攻め寄せてきた。いわゆる関東遠征の小田原城の戦いである。
これに先立ち、北条氏康は信玄に対して前年(1560年)に援助を求めていた。

ーー 前年(1560年)・軽井沢ーー

謙信は越後から小田原に向かって軍を進め、関東諸将らを降して味方にし、軍勢を大きく膨らましていった。こうした中で北条から援軍要請を受けた信玄は兵を率いて軽井沢に陣を敷いた。

飯富虎昌

この上杉の大軍に攻められては、北条氏は到底かなわず、滅亡は逃れられぬかと。

飯富虎昌アイコン
武田信玄アイコン

武田信玄

・・・

飯富虎昌

北条が滅べば、上杉の大軍の矛先は我らに向けられ、早晩北条の後を追うことになるかと・・・
同じ滅びる運命なら、潔く決戦してそうなったならば、武田家はその名を永遠に残すことになるかと存じます。

飯富虎昌アイコン

飯富虎昌

殿!是非ここは攻め時でございましょうぞ。

飯富虎昌アイコン
武田信玄アイコン

武田信玄

待て!わしに考えがある。

飯富虎昌

!?(なぜ攻めんのじゃ・・まさか謙信を恐れてのことか?)

飯富虎昌アイコン

信玄は虎昌の進言を聞き入れないでいた。

ーーーーーーーーーー

謙信は信玄が向かってこなかったことにうぬぼれたのか、結局は小田原城を落とせずに鎌倉に向かい、関東管領就任式を行なった。この式で成田長泰が下馬をしなかったため、謙信は扇で長泰の烏帽子を打ち落として恥をかかせたという。

やがて謙信が越後へ戻った後、成田長泰は北条方に寝返り、上杉に新たに従属した他の関東諸将らもみな、ばらばらになってしまったという。

信玄はこうしたことを聞き、家中の者らに言った。

武田信玄アイコン

武田信玄

わしは謙信を恐れていたのではない。わしが小田原の救援に向かうとなれば、謙信は兵10万の内、3万をわしに対する抑えとして残しておき、2万で小田原を攻めたならば小田原は落城し、わしの救援もなんの役にもたつまい。

武田信玄アイコン

武田信玄

じゃが、北条が小田原に籠城し、わしも討ってでないとなれば、謙信はこれに乗じて自らの威を示すために大将らしからざることをしでかすであろう。さすれば新たに降った関東諸将らはみな、ばらばらになって不慮のことが起こるに違いまい。

武田信玄アイコン

武田信玄

謙信の性格なぞ、鏡に写してみるより明らかなことじゃ。
だからわしは飯富の言うことを聞かず、先々のことを考えていた。わしはこの時節を待っておったのじゃ。

これに老臣をはじめ、誰もが感じ入らぬ者はなかったという。


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