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【信玄連載】第19回:駿河侵攻、駿府占領~撤退まで(1568-69年)

信玄と手切れになった今川氏真は、永禄10年(1567年)末頃から、信玄との戦い想定して越後の上杉謙信に接近し、交渉をはじめていた。

一方、信玄は翌永禄11年(1568年)2月、徳川家康の元へ穴山梅雪・山県昌景らを派遣し、今川領の駿河・遠江両国を東西から攻め取る約束をしたという。

『浜松御在城記』によれば、大井川を境として駿河国を武田、遠江国を徳川が切り取るという約束で、これを取り持ったのが ”織田信長” だという。なお、信長はこの後に足利義昭を奉じて上洛作戦を展開するため、信玄の目を逸らす策略だったという見方もある。

上杉謙信を牽制

こうした中、越後では同年3月に謙信の越中出陣の留守中、謙信に不満を抱いていた重臣の本庄繁長が反旗を翻した(本庄繁長の乱)。さらに4月には、会津の蘆名盛氏が繁長支援のため、家臣の小田切弾正忠らを越後に乱入させる計画があった。

実はこの一連の越後攻めの計画は、信玄が裏で糸をひいており、挙兵の際に彼らを支援する約束をしていたのである。

というのも、信玄は駿河へ攻め込むにも事前に越後の上杉謙信を抑えておく必要性があったからだが、これらの作戦はすぐに謙信の知るところとなった。
本庄繁長が揚北衆らに密書を送って勧誘するが、中条藤資はその密書を内容も確認せずに越中にいる謙信に送り届けたため、計画が漏れたのである。

5月に繁長は越後鮎川城を攻撃したが、謙信の軍勢が押し寄せてきたため、本拠の村上本城(村上市)に退いて籠城せざるを得なくなった。

これを救援するため、信玄は6月3日に大井弾正忠らに出陣を促し、翌4日には諏訪社上社神長官守矢信真に戦勝を祈らせている。
7月には北信濃へ出兵して上杉方の飯山城を攻撃し、長沼城に本陣を構えた。そして信越国境に位置する関山城を攻撃し、越後国への侵入を試みたが、これは上杉方の堅固な防衛で突破することができなかった。

武田軍は10月まで長沼に在陣したが、その後は撤退して駿河国への侵攻の準備を固めていった。なお、繁長は以後も抵抗を続け、翌年3月に降伏している。

甲斐に戻った信玄は11月3日に平野村(南都留郡山中湖村平野)の13人の地下人に対して諸役免許を与えることで、甲駿両国を結ぶ軍道の整備を命じている(「平野長田家文書」)。
また、同時に今川家臣らに調略をしかけ、多くの内通者を得た。『松平記』によれば、この調略の背景に父・武田信虎の功績があったという。

第一次駿河侵攻、駿府制圧へ

そして12月6日、ついに信玄は甲府を出陣し、駿河侵攻を開始。12月12日には駿河国へ侵入し、由井口の内房(富士郡芝川町内房)に布陣。

これを知った今川氏真は重臣の庵原安房守を大将として薩た峠(庵原郡由比町と清水市興津町との境)を防衛線とし、自らも清見寺まで出陣して迎撃しようとしたが、ここでかねてからの内通していた家臣らの離反者が相次いだため、駿府への退却を余儀なくされた。

なお、この日に北条氏政が信玄の軍事行動を許さず、今川救援のために小田原を出発して三島に到着している。これで甲相同盟は破棄となったのである。

翌12月13日、武田軍が駿府へ乱入して大混乱となり、氏真は狼狽して重臣・朝比奈泰朝の居城・遠江掛川城へ逃れた。このとき城中の婦女子らは逃げまどい、氏真の正室・北条氏も興にも乗れず、裸足・徒歩で脱出する有様だったという。
なお、同日には家康が井伊谷口から遠江国への侵入を開始しており、同国内の今川方の諸城を次々と陥落させていくことになる。

一転して窮地に陥る信玄

駿府を占領した信玄だったが、その後は思うように事は運ばなかった。それは北条を敵に回し、家康にもそっぽを向かれたからである。

12月19日に北条氏政は武田打倒のため、上杉氏に使者を派遣して同盟を打診している。ただ、この交渉は両者の思惑の違いなどによって同盟締結までに約半年ほどかかることになる。
また、氏政は氏真が籠もった掛川城対して海路より救援に向かわせ、陸路からは別に駿河国へ軍勢を向かわせた。

こうした北条の動きに信玄は12月23日に家康に書状を送っており、その中で信玄は駿河国の鎮定のために3日以内に遠江へ出馬するといい、家康に掛川城への攻撃を催促している(「恵林寺文書」)。

信玄のとぼけた言い訳?

信玄は駿河侵攻に踏み切ったことを北条氏に弁明したようである。

永禄12年(1569年)正月7日付けの『上杉家文書』によると、信玄は北条氏のもとに使者を派遣し、"氏真が謙信と通じて武田を滅ぼそうと企てているから、信越国境が深雪で閉ざされた時期を狙って駿河へ攻めた” とのことである。

一方で信玄は家康にも翌8日付の書状で弁明している。
というのも、信玄は家康に掛川城攻めを催促した後、信州高遠城にいた家臣の秋山信友の軍勢を天竜川筋を南下させ、遠江国に侵入させたことで、家康方の諸将らと交戦する事態を引き起こし、家康から抗議を受けたのである。

信玄は書状の中で、自分は全く知らなかったといい、秋山信友をすぐに自分の陣営に呼び戻すなどと言っているが、これは一般に確信犯とみられている。

駿府封鎖と信玄の外交策

正月26日、氏政は駿河国の薩た峠に進出して陣地を構え、信玄の背後に迫って封鎖しようとする。

これに対して信玄は、山県昌景を駿府に留め、本陣を久能城(清水市久能)におき、武田信豊を興津清見寺に進ませて薩た峠の北条軍に対抗した。

なお、この興津清見寺付近での対陣に関する逸話があるので、以下に紹介しよう。

※名将言行録より

--駿河国・興津河原--

武田信玄アイコン

信玄

酒じゃ!皆の分が足りるよう酒を買うてこい!

今川氏の救援にやってきた北条軍と武田軍とが興津河原(=静岡県静岡市清水区)で対陣していたとき、正月で浜風も強くふき、敵味方ともに耐えがたい寒さであったという。

武田家臣の一人

はっ!かしこまりました。

家臣アイコン

信玄はこうして酒を買うように命じ、寒さを凌ぐために多くの釜を集めて酒を温めると、家臣らにも酒を与えた。

武田信玄アイコン

信玄

どうじゃ?酒を飲んでずいぶんと身体も温まったか?

武田家臣の一人

はい、しかしそれでもまだ寒うございます!

家臣アイコン
武田信玄アイコン

信玄

ふはははは!

こうして平地で酒を飲んでいても寒いか!
じゃが、山の上にいる北条勢はもっと寒かろう。

武田家臣の一人

たしかに・・・ごもっともでござりまする。

家臣アイコン
武田信玄アイコン

信玄

わしの言いたいことがわからぬか?

武田家臣の一人

は?

家臣アイコン
武田信玄アイコン

信玄

北条勢は高いところに陣はかまえていても、あまりの寒さに麓に降りて油断しているだろう。

今飲んだ酒が醒めぬうちに敵の陣を撃ち取ってしまえということじゃ!

武田家臣の一人

そういうことでございましたか。さすが御屋形様!ただちに出陣いたします!!

家臣アイコン

そうして武田勢の先鋒が敵陣のある薩埵山へ攻め上がると、案の定1人2人が残っているだけであり、ほとんどの者が麓に降りていたため、あっさりと陣屋を破り、さらに武具や馬具を多く奪って帰ってきたという。


話を元に戻すが、信玄は駿府を占領したとはいえ、今川旧臣の土豪らが一揆を起こして北条方と連携をとるようになり、また、海上から迫る北条軍等もあって苦戦したといい、やがて長期戦の様相を呈してきたのである。

そこで信玄は、この局面を打開するために得意の外交策にうってでた。
同盟国の織田信長に使者を遣わし、将軍足利義昭に謙信との和睦の斡旋を依頼すると、2月にはこれを受けた義昭と信長が謙信に対し、信玄との和睦(甲越和与)を命じる御内書を発給したのである。

3月、懸川城を陥落できない家康は力攻めから講和策に転じ、氏真のもとに使者を送っており、「駿府から武田軍を追い払った暁には、氏真殿に駿府をお返しする」という申し入れをしたという。

一方で信玄は3月23日付で穴山衆の市川十郎右衛門尉に信長との再交渉を命じている。その市川に宛てた内容の一部を以下に記す。

  • 信・越国境の雪が消え、謙信が信州へ出撃することも必定となった以上、自分は薩た山を攻め、北条氏と興亡の一戦を遂げる覚悟だが、甲・越和融の将軍の下知が出るよう信長が媒介してくれるなら、急ぎその使者を信州長沼へ派遣するよう、信長に催促してほしい。
  • 家康が遠州を取るのに異議はないが、家康と氏真で和議の動きがあるのは不審だ。信長に真意を聞いてほしい。
  • 自分は今のところ信長以外に味方がない、もしも信長の協力を失えば滅亡するよりほかはない。

上記を見る限り、信玄はかなり追い詰められていることがうかがえる。ただ、これらの外交策が実り、4月7日付で将軍の内書と信長の直江宛書状とが越後に送られている。
また、一方で信玄は同日付で家康に対して以下の内容の書状を送り、家康が今川氏真と講和しないように手を打ってもいる。

  • 今川氏真の籠もる掛川城の攻略の催促。
  • 甲越和与(武田と上杉の同盟)がまもなく成立すること。
  • 既に佐竹・宇都宮氏ら関東諸将の過半を味方に付け、小田原(北条)攻めの準備が進んでいること。

しかし、これは上手くいかなかったようである。
このように信玄は謙信・家康・氏真らの動向をにらみつつ、北条軍と戦って苦戦していたが、24日には駿府を放棄し、撤兵して甲府へ帰国したのであった。

結果的にこの時点では信玄の駿河侵攻は失敗に終わったのである。


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