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【信玄連載】第20回:三増峠の戦いと駿府再占領(1569年)

今川滅亡と2度目の駿河侵攻

信玄の駿河侵攻は駿府を占領したが、結果的に北条氏を敵に回して窮地に追い込まれ、永禄12年(1569年)4月には駿府からも撤退するハメとなった。

一方で5月17日に今川氏真の籠もる掛川城がついに開城することになり、徳川家康北条氏政は今川領を分割領有する恩恵を受けることになった。
これにより、家康は掛川城を手に入れて遠江国をほぼ制圧、北条氏もまた、今川氏真を庇護下に置き、北条氏政の子・国王丸(のちの氏直)を氏真の養子とすることで今川領を事実上受け継ぐことになったのである。

ここに戦国大名としての今川氏は滅び、北条の庇護下にいた氏真が駿府に戻れることはなかった。

甲越和与が成立

1度目の駿河侵攻は失敗に終わった信玄だが、帰国後にまもなくして反撃にでる。5月に入ってからすぐに軍勢を派遣して相模国へ侵攻させており、北条氏の牽制に動いている。

掛川城の開城以後の武田軍の反撃とその他出来事を一覧でまとめると以下のようになる。

  • 5月17日:遠江国の掛川城が開城となる。
  • 5月23日:信玄が信長に書状を送り、徳川と北条が手を結ばないように働きかけを依頼。
  • 6月5日:武田別働隊が武蔵国御岳城を攻め、やがて陥落させる。
  • 6月9日:かねてから交渉が進められていた北条氏と上杉氏との同盟(越相同盟)がようやく成立
  • 6月16日:信玄率いる武田軍が相模国へ侵入し、北条綱成らの守備する深沢城(御殿場市)を攻撃
  • 6月17日:信玄率いる武田軍が転じて伊豆三島を攻撃。
  • 6月25日頃:信玄率いる武田軍が転じて富士郡の大宮城を攻撃。7月までに同城を攻略し、信玄は一旦甲府へ戻る。
  • 7月初旬頃:信玄率いる武田軍が大宮城を陥落させる。
  • 7月:武田別働隊が武蔵国秩父郡に侵攻、やがて鉢形方面へ。
  • 7月下旬:武田氏と上杉氏との同盟(甲越和与)が成立。

上記のような信玄の侵略に対し、北条方は上杉謙信に対して信濃出陣を要請しているが、謙信は出陣していない。なお、『上越市史』によると、謙信は信濃へ出兵しようとしたが、信玄より和与を持ちかけられたので、ひとまず出兵を延期したという。

小田原城まで進軍

大宮城を陥落後に甲府に戻った信玄だが、休む間もなく今度は上野国方面から北条領への侵略を開始する。

  • 8月24日:信玄が出陣。やがて碓氷峠を越えて信濃国から上野国へ侵入。
  • 9月9日:南下して武蔵国へ入り、北条氏邦の守る鉢形城(埼玉県大里郡寄居町)を包囲。
  • 9月:その後、北条氏照の龍もる滝山城(東京都八王子市)を攻撃。
  • 10月1日:北条氏の本拠・小田原城を包囲。

信玄は上述のように次々と転戦して北条氏の本拠・小田原城へ迫ることになった。武田軍が次々と転戦して南下していったのは、北条の各城が堅固で陥落させることはできなかったためである。

この頃、徳川家康は既に武田氏との対決を見据え、北条氏や上杉氏との同盟をもくろんでいたと見られる。一方、上杉謙信は家康からの同盟の誘いのほか、北条氏からの出兵要請も受けているが、信玄との同盟(甲越和与)や越中出陣の影響もあってか、いずれにも応じていないようである。


三増峠の戦い

  • 時期:永禄12年(1569年)10月6日
  • 場所:相模国愛甲郡愛川町三増付近
武田軍

  • 武田信玄
  • 武田信廉
  • 武田勝頼
  • 馬場信春
  • 山県昌景
  • 浅利信種
  • 他・・・

北条軍

  • 北条氏照
  • 北条氏邦
  • 北条綱成
  • 北条氏忠
  • 他・・・

10月1日に信玄は小田原城を包囲すると、城外や城下を放火するなどしたが、北条方は出撃せずに徹底して籠城戦をとった。 北条方の戦力は各支城に分散されていたゆえの籠城作戦だが、これは武田軍にとって背後から北条方に襲撃されるリスクもあることを意味する。

こうしたことから信玄は4日に小田原城の攻略をあきらめて、突如退却をはじめた。
これを知った北条氏政は、同日に謙信に書状を送り、翌5日には追撃して武蔵・相模の間で信玄に決戦を挑む覚悟だと伝えている。

北条方は氏照・氏邦兄弟らが先に三増峠に急行し、帰路の武田軍を待ちかまえ、氏政ら小田原城からの追撃軍と挟み撃ちしようとした。こうして10月6日に信玄の有名な退却戦・三増峠の戦いがはじまる。

この戦いで武田勢は箕輪城主の浅利信種を失うなどしたが、武田方の記録では数千もの北条方を討ち取って大勝したと伝わっている。・・とはいえ、戦地は険しい山路であったため、武田軍は小荷駄を捨てての退却戦を強いられている。
北条氏政ら追撃軍は合戦に間に合わず、途中で敗戦の報を聞き、小田原へ引き返したという。

北条方に大打撃を与えた武田軍はその夜、津久井の近所道志河畔に夜営し、翌7日には甲斐国都留郡諏訪村(北都留郡上野原町)に着陣した。

謙信に対する北条方の報告

戦後の8日と16日に北条方は謙信に対し、信玄との合戦に関する以下の旨の書状を送っている。謙信が北条方の出兵要請に動かなかったことがうかがえる。

  • 8日:当方(北条氏政の本隊)旗本の到着が1日遅れたため、信玄を取り逃がしたのは無念だ。堅い約束にも関わらず(上杉方の)御加勢がなかったのでは致し方がない。
  • 16日:信玄をわずかの手違いで討ち取れなかったのは無念だ。寒天の候だが(上杉方が)信州まで出馬してくれるなら、当方は甲州へ攻め込む(『上杉家文書』)。

3度目の駿河侵攻

帰国した信玄はすぐに3度目の駿河侵攻を計画する。

『陽雲寺所蔵文書』によると、信玄は11月9日、諏訪社等に起請文を捧げ、駿河・伊豆両国の併呑と越後の潰乱とを祈ったという。 そして信玄は駿河へ侵入して富士に着陣。これに対して北条方は11月28日に、またもや上野沼田城に出陣中の謙信に救援依頼をしている。

再び駿府占領へ

信玄は12月6日、北条氏信らが守備する蒲原城を攻略して山県昌景を置くと、自らは駿府へ向かった。そして臨済寺鉄山宗純を使者として駿府城を守る今川方の阿部正綱らを説得し、同月13日に駿府を再び占領することに成功したのである。

この蒲原城攻略では、以下のような逸話が伝わっているので紹介しよう。

※『名将言行録』より

永禄12年(1569年)12月、信玄による駿河侵攻が大詰めを迎え、すでに今川氏は事実上滅び、信玄は今川に援軍を出す北条氏との抗争を繰り広げていた。

こうした中、信玄が北条綱重の守る駿河国・蒲原城に攻め込んだときのことである。

ーーー 駿河国・蒲原城周辺ーーー

信玄は蒲原城内に使者を出し、開城を試みた。

武田信玄アイコン

信玄の使者

武田の使者にござる。こたびは朋輩のご連中と城の明け渡しをお願い申す。

北条綱重

うぬう・・。我等はいやしくも北条幻庵のせがれであるゆえ、他の者らとはいささか違う。わしは降伏はせぬ。もし信玄が攻めてくるというならば一戦を辞さぬ覚悟だ。帰ってそのように伝えるがよい。

家臣アイコン

これを聞いた信玄は・・・・

武田信玄アイコン

武田信玄

うむ、やむを得んな。明日は駿河の城に取りかかることとし、蒲原城はまたのことにする。

こうして御触れをだした。

武田方は去る同年10月に三増峠で北条方を討ち破っていたが、信玄がこの戦いのことを知ると、また言った。

武田信玄アイコン

武田信玄

敵の城兵らは打って出てきたところで我らを食い止められまい。老臣らは出てこないが、綱重だけは氏康・氏政より豪勇の士だからおそらく外へ討って出てくるだろう。

北条の忍び

・・・

家臣アイコン
武田信玄アイコン

武田信玄

もし敵兵が食い止めに討ってでてきても、かまわずにつき進むのじゃ。ここで兵数を減らし、駿河の城攻めに手間取ってはどうしようもないわ。

北条の忍び

!!(むう、すぐに報告しなくては・・)

家臣アイコン

信玄はこうして作戦を立てたが、敵の忍びが潜んで話は聞かれていた。
忍びが城に戻ってこれを報告すると、敵の上下の者らは競い合って言った。

北条諸将ら

諸将A:明日、武田が通るところを討って出て食い止めようぞ。
諸将B:いや、通した後に追って討つのがよかろう。

家臣アイコン

北条綱重

うむ、敵の先手と本隊を分断してしまえば、信玄を討ち取ることは容易じゃ。

家臣アイコン

などと意見を言い合った。

ーーーーーーーーーー

さて、武田の先手が5日の途中に出発し、6日の朝には由井倉沢まで通った。しばらく間をおいて小山田備中昌辰が本隊の少し先を行った。すると案の定、綱重と狩野新八郎が城を出払って武田先鋒と本隊との間に割って入り、打って出てきた。

そして北条綱重が昌辰と競り合う隙に、武田四郎勝頼が道場山から攻め込み、その他本隊と後備・脇備が一緒になって蒲原城を乗っ取ったのであった。

これをみて綱重は城に引き返すが後の祭りであり、小山田勢の追撃を受けてことごとく首を討ち取られたのであった。


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