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【信玄連載】第21回:甲相同盟の復活と徳川領への進出(1570-71年)

4、5回目の駿河侵攻

再び駿府を奪取した信玄は永禄13年(元亀元年・1570年)正月4日から、今度は今川家臣の大原資良らが守備する花沢城(焼津市花沢)への攻撃をはじめた。

このとき信玄は投降を促したが、敵はこれを拒否して激しくしたという。武田軍はこの戦いで多くの損害を受けたが、猛攻を繰り返して27日には攻略し、開城を果たした。
なお、大原資良は遠江国の高天神城の小笠原長忠を頼り、落ちのびていったといい、信玄も一旦甲府へ帰国している。

この時点で信玄の駿河支配は富士・駿東郡を除いた部分に及んでいる。
この後も信玄はたびたび北条領への侵略を行なっているので、以下に時系列でまとめた。

  • 正月4日:4回目の駿河進攻を実施。花沢城(焼津市花沢)への攻撃を開始。
  • 正月27日:花沢城を開城させる。
  • 4月16日:5回目の駿河進攻を実施。東部駿河と伊豆を攻撃。
  • 5月:富士郡吉原や駿東郡沼津にて北条軍と交戦。
  • 8月:駿河駿東郡の興国寺城や伊豆国の韮山城にて連日、北条軍と交戦。

謙信と家康が同盟

北条氏政は、上記の武田軍との戦いで上杉謙信に援軍を要請していたが、これに謙信は氏政が同陣するなら出兵すると要請し、氏政は謙信が信濃へ攻め入ったなら駆けつけて同陣すると答えるなどしていたようである。越相同盟はすでに成立していたが、結局は条件等がかみ合わず、またしても謙信は出兵しなかったのであった。

同年8月には甲越和与が破棄となり、謙信と信玄の同盟は手切れとなったようである。そこでさっそく信玄は翌9月に諏訪大社に参拝し、謙信の撃滅を祈願すると、関東へ出陣して上杉や北条の所領を荒らしている。
これには謙信もようやく出兵を決意したようであり、10月20日に謙信が関東へ出陣したため、信玄は兵を引き上げている。

一方で徳川家康は信玄との戦いを想定し、かねてから謙信との同盟を水面下で進めていた。そして10月8日に双方が起請文を提出し、上杉・徳川同盟が成立となった。
『上杉家文書』によれば、以下の2ヵ条を誓約したという。

  1. 徳川は武田信玄と絶縁する。
  2. 信長と謙信を結ばせ、信長と信玄との縁談を破棄させる

つまり、織田・徳川連合は武田氏と断交し、新たに上杉氏と手を組むということである。

信長を敵視しはじめる信玄

ところで、この年の織田信長はどういう状況にあったのだろうか?

彼は既に将軍足利義昭を誕生させて織田政権を樹立しており、殿中御掟という掟を義昭に承認させ、将軍権力をも制限させるほど強大な力をつけていた。

これをきっかけに信長と将軍義昭との関係に軋轢が芽生えはじめる。以下に要点をまとめた。

  • 正月:信長、将軍義昭に殿中御掟追加5か条を承認させる。
  • 6月5日:信玄、近江に出陣した信長に見舞いの書状を送る。
  • 6月15日:信玄、朝倉義景に書状を送り、同族の若狭武田氏の孫犬丸を庇護してくれたことを感謝する。
  • 12月15日:本願寺顕如から信玄の元に、信長の脅威を訴えて協力を要望する書状が届く(『顕如上人御書札案留』)。

上記をみると、6月の時点で信玄と信長の関係は良好なことが伺えるが、一方で信玄は信長の仇敵である朝倉義景や本願寺顕如とも書状のやりとりをしている。ちなみに本願寺顕如の妻は信玄夫人の妹に当たっていることから、信玄と顕如は以前から懇意にしていたようである。

信玄は信長と同盟関係を維持しているが、信長の将軍に対する振る舞いを不快に感じ、密かに敵意を抱くようになったとみられている。そして表面上は信長と友好関係を保ちながら、水面下で将軍義昭や反信長勢力らと通じて信長包囲網を形成していくことになる。

駿河制圧と徳川領への進出

上杉と徳川を敵に回した信玄だが、駿河制圧のために侵攻を続けていた。

信玄は11月には上野国再出兵のうわさを流し、上杉方を緊張させると、12月上句には最後となる駿河侵攻を開始し、北条網成の駿東郡深沢城や興国寺城を攻めた。
年が明けた元亀2年(1571年)正月3日、信玄は深沢城に矢文を送って北条綱成らに降伏を勧告。16日には降伏・開城としている。これにより、信玄による駿河国の制圧はほぼ成ったのである。

ちなみにこのときも氏政は謙信に援軍要請をしており、一応は上野国沼田に上杉軍が派遣されたが、謙信自身は越中攻めに専念していたため、出撃していない。

遠江・三河への進出

駿河を制圧した信玄の次なるターゲットは徳川領であり、以下のように翌月から5月にかけてさっそく侵攻している。

  • 2月24日:駿河より遠江国に侵攻し、小山城を築城して城将に大熊朝秀を置く。
  • 3月:小笠原長忠の守る高天神城を内藤昌豊に攻めさせ、信玄自身は信濃高遠に引き揚げる。
  • 4月:信玄は子の勝頼とともに信濃から三河国に侵攻を開始し、15日に鈴木重直の守る足助城を攻める。
  • 4月19日:足助城を陥落させ、伊那郡の下条信氏を置く。
  • 4月下旬:浅賀井(畑町)、阿須利(足助町)、八桑・大沼(下山村)、田代(下山村)など近辺の敵城を攻略。また、 菅沼定盈の守る野田城(新城市野田)を攻め、その支城を攻略し、酒井忠次の守備する吉田城(豊橋市)に迫る。
  • 4月29日:二連木(豊橋)で交戦し、逃げる敵を追撃して吉田城まで追い込み、籠城戦の展開となる。
  • 5月上旬:武田軍、甲府に戻る。

以後、年内は徳川領への軍事行動を控えた信玄だが、おそらく翌年から展開される西上作戦に向けての準備期間であったと考えられる。実際、信玄は同年5月に大和国の松永久秀の家臣・岡周防守に宛てた書状で信長のことを非難しており、信長討伐に協力するために上洛すると述べているのである。

甲相同盟の復活

こうした中、10月3日に北条氏康が亡くなった。

氏康は上杉謙信との同盟を打ち切り、信玄との同盟を復活させるよう、氏政に遺言をしたというが定かではない。
ただ、氏康の死後、信玄と氏政が同盟復活に向けた交渉を極秘裏に進めていったようである。そして12月中に甲相同盟が成立となった。その内容は以下となっている。

  • 関八州は北条領とすること。ただし、以前から武田方に属している西上野は除く。
  • 北条・上杉間の絶交状を武田方に見せること。
  • 上杉陣営についての情報を交換すること。
  • 武田方に人質を出すこと。
  • 今川氏真を追放すること。

これを受け、北条氏政と上杉謙信の越相同盟は破棄となった。
こうして信玄は西方、つまり遠江・三河・美濃などの徳川・織田領への侵攻に専念できるようになったのである。


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