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武田信玄の最期。死因に諸説あり!(1573年)

西上作戦を展開した信玄は、元亀3年(1572)10月から12月にかけて、瞬く間に徳川領を制圧。同年12月22日には、三方ヶ原の地で徳川軍に大勝し、一時は徳川家康の本拠・浜松城をも襲撃する勢いであった。

戦後、武田軍の三方ヶ原での大勝が本願寺や浅井長政ら反信長勢力に伝わり、彼らは勢いづくが、その中で朝倉義景は近江から軍勢を撤退させていたようであり、信玄は12月28日付の書状で義景を詰問している。

作戦の頓挫と信玄の死

そして、年内は遠江国の刑部に留まって越年すると、元亀4年(1573)正月初旬から三河国へ進軍を開始し、野田城を包囲。
2月15日には同城を攻落すると、翌16日には、さっそく顕如に野田城陥落を報告し、朝倉義景の出陣要請を依頼している。また、同日に将軍義昭のもとにいる東老軒(常存)にも書状を送り、朝倉義景が再び出陣することと、それに合わせて武田軍も動く旨を伝えている。

勢いづく反信長勢力

一方で将軍義昭は、この頃、近江の今堅田城や石山城に幕臣のほか、伊賀・甲賀の国衆や一向一揆勢などを籠城させた。 義昭は織田信長と不和となってから、水面下で反信長勢力を結集し、信玄の上洛を心待ちにしていたのだ。
なお、当時は信玄の父である武田信虎が近江国甲賀郡に滞在し、こうした軍勢の召集を行っていたらしい。(『細川文書』ほか)

このように信長包囲網は佳境を迎え、まもなく信長は浅井・朝倉・本願寺のほか、武田勢との戦いも強いられる危機的状況であったが、武田軍がさらに攻め込んでくることはなかった。信玄は上洛の意志も固かったが、野田城の攻略中に発病したため、攻略2日後の17日にやむなく長篠城へ後退してしまったのである。
なお、信玄は3月6日付の美濃岩村城の秋山虎繁に宛てた書状で、東美濃に出てきた信長勢力を追い払うように出陣を命じているが、これを最後にその後の動向ははっきりしない。一説には長篠城近くの鳳来山で静養していたといい、回復しないために帰国することにしたという。

こうした中で3月8日、機が熟したと判断した将軍義昭は、松永久秀・三好義継らと謀ってついに挙兵した。ここに公然と信長と敵対し、両者は完全に断交となったようである。

信玄、帰国の途で死す!

しかし、先に述べたように武田軍の侵攻は、信玄の病が原因でストップしていた。『甲陽軍艦』によれば、信玄の病状は2月中旬には回復傾向となったが、3月3日には歩き回れるほどになったという。
だが、結局は義昭が待ちわびていた信玄の信長攻めは実施されなかった。そして3月末には信長が出陣し、やがて義昭の御所も包囲となって4月7日には降伏を余儀なくされたのであった。

信玄が西上作戦を停止してしまったことが大きく影響したのであろう。そして信玄の病状が好転しなかったため、武田軍は一旦甲府へ帰国することにした。だが、日を追って信玄の病状は悪化の一途をたどり、信濃国下伊那郡で危篤状態に陥った。 死の間際、信玄は子・武田勝頼を枕元に呼んで遺言した。

--「3年はわしの死を隠せ」--

つまり、敵対勢力が反撃に出ないようにし、その間に武田領内の備えを堅固にしろということであった。
こうして翌日、信玄は帰らぬ人となったのである。同年4月12日、享年53。

信玄の死因と最期の場所

信玄の死因は、以下のように諸説あり、いずれも確証がない。

  1. 肺結核
  2. 胃ガン
  3. 日本住血吸虫症
  4. 肝臓病
  5. 野田城の戦いで鉄砲で狙撃を受けた傷

比較的信頼性の高い史料として、信玄の侍医を務めたという御宿監物の書状が残っているが、解釈次第で "肺結核" とも "胃ガン" とも取れるらしい。また、『甲陽軍艦』では胃ガン説をとっている。
なお、病死であったことに疑いの余地がないと考えられているようであり、病名の特定は困難との見方があるようだ。 よって 死因=狙撃説はあり得ないということであろう。

次に没した場所だが、これも以下のように史料によって記録が異なっている。

  1. 御宿監物の書状:駒場
  2. 『三河物語』:平谷・浪合
  3. 『甲陽軍鑑』:根羽

上記はいずれも信濃国下伊那郡にある地であるが、断定は難しい問題とされている。


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