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【信玄連載】第14回:信玄と謙信が一騎討ち?「第四次川中島の戦い」(1561年)

第四次川中島合戦

永禄4年(1561)の第四次川中島の戦いは、5度あった川中島合戦の中でも、最大の激闘となった有名な戦いである。

上杉謙信は同年3月、関東出兵で北条氏康の籠もる小田原城を攻め、続いて鎌倉で関東管領就任式などを行なっていたが、その間、信玄が北信濃へ出陣して越後国境を脅かしたため、同年6月には帰国している。

川中島の情勢は、この時点で信玄がほぼ掌握していたが、謙信は雌雄を決しようと決意し、この戦いが幕を開けることになる。
なお、この戦いの記録は確かな史料には存在せず、『甲陽軍艦』を元にして後世の軍記物などでさらに大きく脚色されている部分も多いようだ。
真偽は定かでないが、『甲陽軍艦』をもとに、決戦までの流れと戦いの経過をみていこう。

  • 8月14日:謙信が大軍を率いて春日山城を出陣し、川中島へ向かう。
  • 15日:謙信の軍勢が信濃国の善光寺に着陣。
  • 16日:謙信は犀川を渡河して川中島に侵入、海津城を横目に千曲川をも渡河し、妻女山に布陣。
  • 18日:越後勢侵入を知った信玄が出陣。
  • 24日:信玄が川中島に進出。
  • 29日:信玄が海津城へ入城。

啄木鳥の戦法

両軍の着陣後、数日間は動きがなかったようが、9月9日に信玄は軍議を開き、武田軍を2手に分けて、別働隊は妻女山の上杉陣営を夜襲すべく秘かに迂回させた。
一方の信玄本隊は川中島の八幡原に布陣し、別働隊の夜襲を受けて上杉軍が山を下りて来たところを待ち伏せして挟み撃ちにしようとする作戦である。

この作戦は山本勘助が献策し、キツツキがくちばしで獲物の潜む木を叩き、驚いて飛び出した獲物を喰らうことに似ていることから「啄木鳥戦法」と命名されたという。

決戦

翌9月10日の早朝、武田の別働隊が妻女山の上杉陣営に攻撃をしかけようとしていたが、謙信はこの作戦を事前に察知しており、既に山を下って手薄となった八幡原の武田本隊を攻めようとしていた。

この日の早朝は濃霧により、両軍は敵の動きを把握していなかったが、やがて濃霧が晴れると、まもなく両軍の乱戦となったようである。

当初は作戦の裏をかき、兵力でも勝る上杉軍が優勢だったようであり、武田軍は信玄の実弟・武田信繁をはじめ、山本勘助・両角虎光・初鹿野源五郎・安間三右衛門・三枝新十郎・油川彦三郎など、多くの有力な家臣が討死している。
しかし、妻女山へ向かっていた武田の別働隊が合流するに及び、形勢は逆転となって上杉軍を善光寺に追い崩したという。

この合戦の勝敗ははっきりしないが、両軍ともに多大な犠牲者が出たとみられ、たちまち尾ひれが付いて広まったようだ。

両軍ともに自軍の大勝を宣伝したようであり、武田側の記録によると、上杉軍の犠牲者は3千余といったところであろうか。以下は各史料から該当箇所を抜粋したものである。

  • 『勝山記』:"景虎(=謙信のこと)悉(ことごとく)人数打死イタサレ申候"
  • 『甲陽軍艦』:"越後衆を討取其数、雑兵共に三千百十七"
  • 『温泉寺所蔵文書』:"敵三千余人討ち捕り候。"

一方、上杉側の記録では、武田軍の犠牲者が八千余という明らかな誇張がみえる。以下は各書状の中から該当箇所を抜粋したものである。

  • 9月13日付の謙信から家臣に宛てた感状:"凶徒数千騎打ち捕え・・(略)"
  • 10月5日付の関白近衛前久から謙信に宛てた書状:"(略)・・・八千余討ち捕られ候事、珍重の大慶に候。"

いずれにしても、両軍が勝利を喧伝していることから、真偽は定かでない。

時に信玄が41歳、謙信が32歳であった。

「信玄 vs 謙信」一騎討ちの伝説

なお、第四次川中島の決戦の有名な伝説として、「謙信が信玄本隊に単騎で切り込み、馬上から信玄に三太刀斬りつけたが、信玄が軍配でこれを受け止めた」 というのがあるが、これは『甲陽軍鑑』を元に脚色されて一般に流布するようになったとみられている。

信玄vs謙信の銅像

『甲陽軍鑑』によれば、この決戦のときに、謙信が信玄本隊まで切り込んだという。また、これに関連しそうな確実な史料としては、先に述べた10月5日付の関白近衛前久から謙信に宛てた書状の中で、以下の文章があり、謙信が自ら太刀を持って戦ったことを示している。

"期せざる儀に候と雌も、自身太刀討に及ばるる段、比類無き次第、天下の名誉に候。"

一騎討ちの真偽は不明だが、謙信自らが戦ったことから一騎討ちの伝説が生まれたと考えられているようだ。

一騎討ちを評す者たち

この一騎打ちの伝説に関し、後年の談話のエピソードがあるので、以下に紹介しよう。

※『朝野雑載』より

武田家が信玄亡き後の勝頼の時代に、諏訪越中守(諏訪頼豊)が言った。

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諏訪頼豊

川中島のとき、謙信は萌黄緞子(もえぎどんす)の胴着に白い布で頭を包み、三尺ほどの刀を持って月毛の馬で信玄のもとへ乗りかけ、刀身で三太刀までも切りつけた。
それに対し、信玄は刀に手すらかけずに軍配で謙信の強烈な太刀を受けた。その振る舞いは堂々としていて、威圧的なものであり、さすがは名だたる名将である。

このように信玄のことを称賛した。すると、今度は藤田能登守(藤田信吉)が言った。

藤田信吉

われらは上杉譜代の者だからその話は聞いている。
しかし、軍配で受けた信玄公を世間が名将とほめたことに対し、謙信公はケラケラと笑い「信玄もさぞかし、その時は太刀を抜きたかったろうが、わしのほうがたたみかけて打ってかかったから太刀を抜くヒマもなかったのだ。」と話しておられた。

家臣アイコン

と言ったという。


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