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【信玄連載】第18回:西上野制圧と今川氏との手切れ(1566-67年)

西上野の制圧

永禄9年(1566)になると、上野国における情勢が大きく変化することになる。

前年に引き続き、上杉謙信はたびたび関東へ出陣して北条氏に属する諸城を攻め立てた。
彼は同年2月に、常陸国の小田城(茨城県筑波郡筑波町)を陥落させると、3月には下総国の臼井城を攻めている。

一方でこのころ、足利義秋(のちの15代将軍義昭)が幕府再興のために謙信に使者を送り、北条氏康と和睦して上洛するように要請してきた。
というのも、前年に、将軍権威を回復しつつあった13代将軍足利義輝が、かつて中央政権を掌握していた三好氏(三好三人衆ら)に殺害されていたからである。

これが影響したかどうかは不明だが、謙信による関東諸城の奪還はことごとく失敗し、やがて上杉方の関東諸将らが次々と北条方に寝返っていった。

箕輪城を陥落させる

こうした中、信玄も西上野へ出陣し、上杉方の箕輪城を包囲したが、なかなか攻落することができなかったようだ。

閏8月には、信玄が吾妻郡大戸城の信濃衆に対し、「謙信が沼田まで出陣し、岩櫃城を攻める気配がある。上田衆を援軍に派遣するから、用心するように」との旨を伝えている。これは、謙信が箕輪城の後詰めに向かっていたとみられている。
しかし、9月になり、謙信が箕輪城に詰めてくる前に、ついに箕輪城が陥落、城主の長野業盛は自害となった。

これにより、西上野は武田氏の支配下となって一段落することになった。
そして信玄は箕輪城を修築し、重臣・浅利信種を入れ、以後の西上野支配の拠点とするのであった。

関東の上杉勢が一気に後退

西上野を得た信玄とは対称的に、謙信の関東支配は後退を余儀なくされた。

10月には、金山城の由良成繁が北条方に寝返ると、12月には上杉方の関東経略における軍事拠点であった厩橋城の北条高広までもが離反してしまった。
なお、北条高広が離反したのは、先に述べた箕輪城の陥落をみての判断だったとされている。厩橋城は、箕輪城の東、利根川を挟んでわずか2.5里の場所に位置していたのである。

義信事件の顛末と今川氏との手切れ

永禄10年(1567)の信玄の軍事行動は、5月に上野国の総社城(前橋市)を攻略するが、それ以外に形跡はみられない。ただ、西上野に関しては所領安堵や知行宛行などは多くみられている。

この年の出来事で注目すべきことは、かつて信玄の父・武田信虎の時代から保たれてきた武田・今川間の同盟関係が破綻を迎えることだろう。 そのきっかけは、2年前に信玄が織田信長と婚姻関係を結んだことにある。

信玄は外交方針を変え、没落過程にあった今川氏をいずれ討とうと考えたとみられ、一方で父を討たれた今川氏真にとって、同盟国が父の仇と手を結ぶなど、到底受け入れられるものではなかっただろう。

実は続いていた義信事件

今川氏と縁の深い嫡男義信と飯富虎昌らによる信玄暗殺未遂事件、いわゆる義信事件は、この武田・織田同盟交渉と同じころに起こっているが、このときは飯富虎昌らを首謀者として処刑することで事態が収まり、嫡男の義信は難を逃れていた。

ところが、この事件には続きがあった。
その後、時期は定かでないが、義信は突如として後継者の地位を剥奪され、甲府の東光寺に幽閉されているのだ。

この年(1567)の8月7日、信玄は、甲斐・信濃・上野の家臣237名に対して忠誠を堅く誓わせる起請文を提出させ、これを小下之郷大明神(長野県小県郡塩田町の生島足島神社)に納めた。これは信玄が家臣の動揺を防ぐべく、信玄が行なったものであり、その動揺の原因が義信の廃嫡・幽閉と考えられている。

塩留め

さらに、8月17日には、氏真が家臣に対し、武田領への塩留め(塩の売買禁止)を指示している。(『芹沢文書』)
このため、甲斐・信濃の民が塩の入手に苦しんだが、これを知った謙信が敵国の武田領に塩を送ったという美談は有名であろう。ここから「敵に塩を送る」のことわざが生まれたのだ。

それはさておき、武田・今川間の同盟は、この塩留め以前に破綻したとみていいだろう。

義信の死とその後の氏真

かねてから生じていた信玄・義信父子の不和は、周囲の人々が調停に乗り出したものの、結局は解消されなかったらしい。 そして、ついに10月19日、義信は幽閉先の東光寺で自害して果てたという。

翌11月、義信の死を知った氏真の要請により、信玄は義信の正室であった氏真妹・嶺松院を駿府へ送還している。
一方、武田が攻め込んでくると考えた氏真は、密かに謙信に通じて同盟交渉をはじめるのであった。


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