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長宗我部元親の名言・逸話まとめ

逸話・人物像

変人?

元親は生まれつき長身で色白であったが、物をほとんど言わず、人に会っても挨拶すらしない変人であったため、「姫若子」(ひめわかご)と言われていた。父・国親はこのことを深く心を痛めていたという。

土佐の出来人

22歳での初陣となった長浜の戦い(1560年)では槍の突き方を知らなかったらしく、家臣の秦泉寺豊後にその方法を聞いたところ、「敵の眼を突け」と教わったという。そして元親は50騎ばかりを引き連れ、敵軍の真っ只中をかけ破って大いに奮戦したという(『元親記』)。
この初陣で功をあげた元親は家臣から多大な信頼を寄せ、以後、"土佐の出来人"と仰がれるようになったという(『長元物語』『土佐物語』)。

離反した家臣を追討せず

天正8年(1580年)に家臣の波川清宗が謀反を起こしたため、元親はこれを討ったが、清宗の弟二人を許した。しかし、この弟二人 は兄の敵討ちを覚悟して岡豊から本拠の波川に帰ってしまった。
元親の家臣がこれを追討しようとした際、元親はこの2人を失ったことを惜しんでこれを討たなかったという(『土佐物語』)。

謀反人の心中を察して人質を解放する

信長による四国攻めで三好康長が阿波国へ攻め入ると、康長の子である岩倉城の三好康俊がこれに呼応して反旗を翻した。元親は康俊の実子を人質にとっていたが、康俊が父の意向に逆らえずにやむをえずに敵対した心中をはかり、康俊の実子を送り返したという。
この行為に三好康長は土佐国の方に向かって手を合わせて拝み、涙を流して礼をいったと伝わっている。

羽柴秀吉の四国攻め

  • 谷忠澄の意見:家臣の谷忠澄は「上方勢(羽柴軍)は武具や馬具がきれいに光り輝き、金銀をちりばめて馬も立派で、兵士は旗指物を背にまっすぐに差して、勇ましい。」と言い、これに比べて「わが長宗我部軍は10人中7人が小さな土佐駒に乗り、鞍も曲って木の鐙をかけている。兵は鎧の毛が切れ腐って麻糸でつづりあわせてあり、小旗を腰の横に差していて上方勢とは比較にならない。わが国には兵糧もとぼしく、長く合戦できる状態ではない。」と言い、自軍の粗末な装備と経済基盤の脆弱さを嘆いている(『南海治乱記』)。
  • 降伏の勧め:秀吉による四国攻め(1585年)の際、家臣の谷忠澄が元親に降伏の説得をしたところ、元親は「西国で名の知られたこの元親が、一戦もせずに降伏するのは恥辱である」と言い、忠澄に「腹を切れ!」と激昂した。
    その後、忠澄が他の重臣らと相談し、再び説得したところ、元親もついに折れて和議を承諾したという(『元親記』)。

嫡男・信親が討死にすると・・・

豊臣政権下の九州征伐の過程で嫡男・信親が討死にした際、元親は自害を決意したほどであったが、家臣に諌められて踏みとどまったという。信親は智勇兼備の武将であったことからも元親はかなりのショックだったようで以後、人柄が一変したという。
また、秀吉が元親を慰めるべく、新たに大隅国を与えようとしたが、元親はこれを辞退している。

矛盾する人物像

『元親記』には "律儀第一の人" と記されているなど、道徳心をもつ人物に描かれている。しかし一方、 『細川三好君臣阿波軍記』では "不仁不義の大将" "悪逆" などの文字がみてとれる。

 ワンポイント
こうした人物像の矛盾は、土佐側の軍記物では元親像はひいき目に描いているが、敵方からみた軍記物では異なったものが多いようである。


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