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吉良親貞

元親の弟として知られる吉良親貞は、天文10年(1541)に長宗我部国親の二男として誕生した。

かつて祖父・兼序の代のころ、本山氏ら有力国衆に攻め込まれて本拠岡豊城を奪われた長宗我部家は滅亡の危機にあった。しかし、土佐一条氏の仲介により、父・国親が念願の本領復帰を果たしていた。

親貞の誕生時というのは、国親が本領に戻ったのち、失地回復や軍備増強などのお家再興に努めていた時期にあたる。
親貞の幼少期についてはよくわからないが、岡豊城で国親や元親とともに過ごしていたのだろう。

このころの長宗我部氏は、かつて岡豊城を奪った本山氏とも和睦し、姻戚関係にまであった。しかし、次第に国親が勢力を増していき、さらに天文24年(1555)に本山氏の当主が代替わりすると、ついに両者の友好関係が崩れる。

そして永禄3年(1560)、成長して20歳になっていた親貞がようやく初陣を果たす。

それは兄・元親の初陣で有名な「長浜の戦い」である。
本山氏の支城・長浜城を攻略したこの戦いに、実は元親とともに親貞も出陣していたのであった。なお、この後まもなく父・国親が没している。

父の死後、家督を継いだ元親は、引き続き本山氏攻めを展開していったが、親貞も長宗我部勢の主力として従軍していたたと思われる。

長宗我部勢は、本山氏の要衝・朝倉城を攻め、苦戦の末に永禄6年(1563年)にようやく攻略するが、このとき、朝倉城だけでなく、吉良城の本山兵も本拠本山に引き揚げていった。
そこで親貞は吉良城の守備を任されることになったようだ。

これ以後、親貞は吾川郡の国衆である吉良氏の名跡を継ぎ、"吉良親貞" と名乗ることになった。
吉良氏は「土佐七雄」の一つに入る国衆だが、同じく七雄の本山氏に滅ぼされていたため、元親は親貞に継がせて再興させたらしい。

永禄7年(1564)、元親は本山氏に焼かれた一宮の土佐神社の再興に着手するが、弟の親貞や親泰も元親とともに諸役を統率し、家臣たちに夫役を課している。
なお、香美郡前浜村伊都多社には、同年付けで "吉良親貞" と名乗った棟札(=建物に取り付けられた建築記念・記録の札)があるという。

そして4年後の永禄11年(1568)に、元親はようやく本山氏を降伏させるが、このときに本山当主・親茂やその妻子を岡豊に引き取ったといい、親茂のニ男・内記は親貞に預けられて蓮池で知行を得たという。

続いて元親らは、翌永禄12年(1569)に安芸氏を滅ぼすが、これで安芸氏と姻戚関係にある一条氏との対立が避けられないものとなった。

同年に長宗我部氏が一条氏の支城・高岡郡蓮池城を攻め取ったことで、両者は手切れとなったが、このときの逸話に親貞が登場する。(『元親記』)

  1. 親貞は元親に蓮池城奪取を申し出たが、一条氏にかねてから恩があるとして許可をもらえなかった。
  2. そこで親貞は計り、一条氏が岡豊へ攻め込む旨の偽手紙をこしらえて元親をだまし、一条氏攻めの許可を得る。
  3. さっそく、親貞は調略で一条方の久礼城主・佐竹信濃守を騙して内応させる。
  4. 一方、蓮池城の在番衆を寝返らせて蓮池城を乗っ取る。
  5. さらに敗走した敵兵が西の戸波城に逃げたが、これを追撃して戸波城をも攻めとる。
  6. これに驚いた一条兼定が元親に抗議してきたが、元親は「弟の親貞がしたことであり、いますぐ兄弟の縁を切る」と謝罪。
  7. しかし、そのまま両者の友好関係は断たれたという。

上記が事実かどうかは定かではないが、奪った蓮池城は親貞に預けられることになり、以後の長宗我部氏は一条氏攻略をすすめていくことになる。

元亀2年(1571)にはかねてから親貞が久礼城主・佐竹信濃守と内通していたことから、容易に攻略。

天正2年(1574)に一条家中でクーデターが起き、元親はこれに乗じて一条氏を掌握する。すなわち、当主の一条兼定が信を失い、妻の実家・豊後国大友氏のもとに追放され、新たに子の一条内政が擁立されることになったのである。
この兼定追放劇では、元親は一条内政の後見を依頼され、娘を内政に嫁いで後見人とした。

これを機に一条家では内訌が勃発するが、元親はこれが危険との理由で、幡多郡中村城にいた内政を大津城へ移動させ、中村城には親貞を入城させて幡多郡を掌握した。

しかし、翌天正3年(1575)には、当主奪還のために一条兼定が四国へ上陸、たちまち兼定に味方する者があらわれ、幡多郡の勢力図はその多くが兼定色になる。中村城の城主となったばかりの親貞と一条兼定の軍勢が小競り合いもあったようだ。
その後、一条兼定勢と長宗我部勢が四万十川を挟んで対峙、いわゆる「四万十川の戦い」となったが、親貞もこれに参陣して大いに攻め立て、勝利に貢献した。

元親の代から15年の歳月を経て、ここにようやく長宗我部氏の土佐統一が成った。

『元親記』によると、親貞は土佐国の西側攻略を担当する "軍代" を任されていたというから、まさに長宗我部の中枢を担っていたといえよう。

その後、元親は四国制覇を見据え、さっそく翌天正4年(1576)から阿波・伊予2国への侵略を開始する。

親貞は土佐西部から伊予国への侵略を開始したとみられるが、その矢先の天正5年(1577)に病死。元親にとっては片腕を失う大きな損失であった。


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