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香宗我部親泰:軍代・外交官として一族の中枢を担った元親の弟

元親の弟・香宗我部親泰は、土佐の有力国衆・香宗我部氏の家督を継ぎ、元親の四国統一過程において重要な役割を果たした将だ。

香宗我部氏の家督を継ぐ

親泰は天文3年(1543年)長宗我部国親の三男として誕生した。幼名は弥七郎。

親泰の元服や初陣など、前半生についてはほとんどわかっていないが、この頃の長宗我部家は父・国親がお家再興に向けて勢力を拡大しており、岡豊城で長兄・元親や次兄・吉良親貞とともに暮らしていたと思われる。

やがて香宗我部親秀に養子入りして香宗我部氏の家督を相続する。
香宗我部氏は土佐国香美郡を本拠とし、長宗我部氏と肩を並べた有力国衆であったが、この時すでに安芸郡の安芸氏と戦って嫡男が討たれるなど、すでに没落過程をたどっていた。

これまで養子入りの時期は、弘治2年(1556)頃とされてきたが、永禄10年(1567)の時点で、親泰の姓は長宗我部を名乗っていたようであり、実際の養子入りは永禄11~12年(1567-68)頃と推定されているようだ。
このとき、香宗我部氏の家督は、親秀の弟・秀通が継いでいたが、この養子入りの件について「自分には男児がいる」として反発したといい、そこで親秀は家臣に命じて秀通を殺害したという。(『土佐国古城伝承記』ほか)

軍代・外交を務め、長宗我部家の中枢へ

元親は永禄12年(1569)、和睦していた安芸氏と決裂してこれを攻め滅ぼしている。
この決裂の理由の一つに「安芸国虎が親泰を通して元親に降伏を願い出たのに、その約束を破った」という説があり、親泰が長宗我部氏の外交を担っていたことがうかがえる。

安芸氏滅亡後、親泰は安芸城を与えられたものの、安芸郡の制圧はまだ成っていなかった。そして『元親記』によると、親泰は土佐東部の軍代、つまりは東部の攻略を担当する軍事指揮官に任命されていたという。

以後、親泰は軍代として安芸郡の完全制圧に向け、動いていったものと思われる。
一方で、土佐西部の軍代は次兄の吉良親貞が担い、幡多郡の土佐一条氏との戦いを展開していった。

そして天正3年〈1575)、ついに、親泰が担っていた安芸郡の完全制圧がなり、その後まもなく幡多郡も制圧して、長宗我部氏の土佐統一が達成された。

その後、長宗我部氏は休む間もなく四国進出を開始し、手始めに阿波国の海部城を攻略したが、このとき親泰は同城の守備を任され、さらには阿波国南方の軍代をも兼任することになる。
以後の親泰は、この海部城を拠点に阿波経略をすすめ、各地を転戦していったとみられる。

こうした中、中央では既に織田信長が織田政権を樹立しており、その勢いは中国や四国にまで届くほどになっていた。
このため、元親は信長に接近して四国進出のおうかがいを立てるなどしているが、織田政権との窓口は親泰が務めている。

天正8年(1580)には、元親が阿波の支配を強固にする目的で、信長に三好康長との友好を依頼したというが、親泰がこのときの使者を務め、信長のいる安土城へ赴いている。

また、同年に本願寺の残党が紀伊の雑賀衆や淡路国の勢力を引き連れて阿波国へ侵入してきたため、長宗我部方は一時的に制圧していた三好氏の本拠である勝瑞城が奪回された。
これがきっかけで長宗我部に従属していた牛岐城主・新開道善が背くが、このときに親泰は巧みに説得して降伏させたという。

その後、長宗我部氏は織田政権と不和となって窮地に陥るが、天正10年(1582)に信長が横死したことで運よくこれを逃れている。そして同年8月末から三好氏との決戦・中富川の戦いにおいて、親泰は先陣を務めている。

天正11年(1583)には、羽柴秀吉柴田勝家との間で織田家中の覇権争いが起こり、このとき長宗我部方は勝家方に味方して戦っており、親泰は阿波の木津城を攻略している。

秀吉が勝家を討って織田家をほぼ掌握するが、今度は信長二男の織田信雄が秀吉と仲違いして家康に援助を求めたことで、天正12年(1584)から「秀吉 vs 信雄・家康連合」の戦いが幕を開ける。(小牧・長久手の戦い)

長宗我部方としては当然、信雄・家康連合に加担することになったが、この連合軍との書状のやりとりも親泰が担当している。 その中で、織田信張から備前国を親泰に与える旨の書状も受け取っている。

このように、四国統一過程における親泰の役割は、非常に大きかったのである。

豊臣政権下での親泰

天正13年(1585)には長宗我部氏の四国統一が成ったとされるが、まもなくして秀吉の四国攻めを受け、元親らはなす術なく降伏した。
秀吉への降伏後、土佐一国のみを安堵された長宗我部氏。親泰は安芸城主の任を解かれて、土佐香美郡へ戻っていったようだ。

豊臣政権による天正20年(1592)の朝鮮出兵(文禄の役)では、嫡男・親氏に香宗我部氏の軍勢を任せ、自らは土佐に残った。その間に太閤秀吉や関白秀次から、大船建造や伏見城普請のための材木の提供などを命じられるなどしたようだ。
なお、元親・盛親父子は朝鮮出兵に従軍している。

しかし、同年中に嫡男の親氏が現地で病死すると、翌文禄2年(1593)には親泰も後を追うように朝鮮へ渡海して現地で病死した。


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