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久武親信:元親に最も信頼された伊予軍代

重臣筆頭として元親に最も信頼され、伊予方面の軍代にも抜擢された久武親信。

久武氏は、桑名氏・中内氏とともに「三家老」と呼ばれる長宗我部の重臣の一角であり、その3氏の中でも久武氏は筆頭家老に位置する譜代家臣だ。

親信の前半生はよくわかっておらず、長宗我部国親の代から仕えていたのかどうかもはっきりしない。

永禄3年(1560)の国親死後に家督を継いだ元親は、同年に本山氏に属する土佐郡久万城を攻略するが、このときに親信は元親から久万城を与えられたようだ。

親信ら重臣は、毎月6度ずつ集まって会議を開き、元親から意見を求められていたようであり、彼らは奉行として長宗我部家の政治上の中枢にいたとみられる。また、元親の家臣団は、鉄砲の訓練によって皆が鉄砲を持って扱えたようだが、元親は親信のことを鉄砲の名手だと言っている。

元親の土佐統一過程において時期は定かでないが、親信は高岡郡佐川城主となっている。

天正3年(1575)に土佐統一を果たした元親は、まもなく阿波国への侵攻を開始し、海部城を陥落させるとともに、周辺の諸城も動揺させて長宗我部方へ降らせている。
このときの戦後処置として、親信の娘が元親養女とされて、桑野城主・東条関兵衛に嫁として出されたといわれる。

元親は勢力拡大に伴って、土佐西部と東部の軍代に2人の弟、すなわち西部に吉良親貞、東部に香宗我部親泰を任命していたが、やがて親信もこの軍代に登用されることになる。

というのも、翌天正6年(1576)から元親は阿波・伊予2方面の経略を同時にすすめたが、伊予方面の指揮官を務めたと思われる吉良親貞が天正5年(1577)に病死したため、その後任として親信が南伊予2郡の軍代に任命されたのだ。

なお、この頃の伊予国は河野・宇都宮・西園寺の3氏による割拠状態となっていた。

以後、親信は伊予攻めに従事したとみられ、天正7年(1579)には宇和郡三間郷へ侵略を試み、やがて同郡の岡本城が長宗我部方に通じてきた。
6月、これに乗じて親信は岡本城へ向かって進軍するが、途中で周囲の城の敵と戦い、大森城主・土居清良の攻撃を受けてついに討ちとられたという。

なお、この戦いの出陣前、親信は元親に「自分が討死しても、弟の彦七(親直)に後を継がせないように。彼はいずれ長宗我部氏の害になる。」と言ったといい、この予言は的中する。
のちに弟の親直の讒言により、長宗我部家は滅亡の道をたどったと言っても過言ではない。

以下は軍記物にみる親信の人物評である。

  • 『元親記』:「武辺才覚、かたがた比類なきもの」
  • 『長元記』:「武辺調略、諸人に勝れり」


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