天正4年(1576)に入り、元親は阿波・伊予2国への侵略を本格的に開始する。
この頃の阿波国は、三好長治が守護の細川真之を傀儡化して、事実上の支配者となっていた。
だが、長治は鷹狩や遊興にふけり、国内の武士や領民に法華宗への改宗を強要するなどの暴政を行なっていたことで、国内に混乱を引き起こすことになる。
同年10月、実権を取り戻そうとした細川真之が海部方面に出奔。これに一宮城主の一宮成助や伊沢城主の伊沢頼俊が、長治に背いて真之を支持し、一宮成助が元親にも援軍を要請したという。
そして、12月には、戦いに敗れた長治が自害して果てた。
このとき、元親は援軍を出して協力し、細川真之と連携して阿波攻略を進めていったと考えられている。なお、この政変については、織田信長が関与していたという見解もあるようだ。
というのも、この年は信長に追放されていた将軍義昭が毛利輝元を頼って、義昭を中心とした反織田勢力が再結成された年である。
中国・四国方面における反織田勢力は、毛利氏を筆頭に本願寺勢力や阿波三好氏などがいる。つまり、信長は細川真之や元親らに働きかけ、間接的に阿波三好氏を攻撃したということであろう。
さて、三好長治の死と同じ頃、元親は阿波の三好郡白地へも攻め込んでいた。
この白地は、阿波と讃岐の境界に位置する要所であり、四国制覇をもくろむ元親にとって絶対に奪取すべき場所であった。
白地城は、三好長治の叔父にあたる大西覚養が守備していたが、元親は計略をもって覚養を降参させたという。
しかし、大西覚養は将軍義昭の政権復帰を支持していたといい、まもなくして毛利方に転じ、元親は白地の支配権を失ったようだ。
これに対する元親は、翌天正5年(1577)の4月に再び白地に攻め込んで覚養を降して服属させたといい、その後、白地に新たな城を築いて家臣の谷忠兵衛に守らせたという。
大西覚養の背後には毛利氏の存在があったが、織田方を支持する長宗我部氏と反織田勢力の筆頭である毛利氏との間はどうだろうか?
どうやら長宗我部と毛利が戦った形跡はなく、少しあとには小早川隆景が "長宗我部とは友好関係にある" 旨のことを述べていることから、両者は敵対関係にはなかったようだ。
こうして元親は、阿波・讃岐・伊予の3方面に通じる最重要拠点を手に入れたのである。
ところで、白地を手に入れたときの讃岐進出にまつわる元親の話がある。
白地奪取後の元親は、讃岐国の進出にあたって真言宗寺院の雲辺寺に登った。
この雲辺寺は標高1000メートル程の高山にあって、讃岐を一望できるという。
そこで、元親が雲辺寺の住職・法院と四国進出の話などをしたところ、法院は以下のように元親の讃岐進出に関して釘を刺したようだ。
元親はこの忠告に納得し、このときは讃岐進出を見送っている。
次は白地攻めと同時並行で進められていたとみられる元親の伊予進出だが、はじめに伊予国のこれまでの情勢などを簡潔に触れておこう。
上述のように、河野・宇都宮・西園寺の3氏による支配の中、元親が天正3年(1575)の四万十川の戦いで一条兼定を破ったことで、長宗我部の支配領域が伊予国と隣接するようになっていたのである。
別記事でも述べたように、伊予攻めは元親の弟・吉良親貞を中心として土佐西部の高岡・幡多2郡の軍勢で進められたとみられるが、その端緒はおそらく天正4-5年(1576-77)であろう。
というのも、天正5年(1577)2月の時点で南伊予を支配する西園寺氏が、土佐からの侵略に困っているとして毛利氏に援助を要請しているからである。
なお、同年中に伊予攻略の指揮官であった吉良親貞が病没し、長宗我部家にとって大きな痛手となった。
ちなみに、元親に敗れた一条兼定の逃亡先が南伊予だったことから、一条氏を支援する勢力と戦ったと考えられる。