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阿波・讃岐・伊予の同時経略(1578-79年)

天正6年(1578)から翌年にかけての元親の四国制覇の戦いは、阿波・讃岐・伊予の3国同時に展開されていった。

はじめに、この時期の主な出来事を以下に示すので、目次がわりにみてほしい。

--天正6年(1578)--

  • 【伊予】長宗我部勢が伊予宇和郡へ出兵
  • 【阿波】三好方の重清城を攻略
  • 【阿波】三好方の岩倉城を攻略
  • 【讃岐】三好方の藤目城を攻略
  • 【讃岐】三好方の財田城を攻略

--天正7年(1579)--

  • 【阿波】三好方が岩倉城奪回に攻めてくるが、激しい攻防の末に長宗我部方がこれを撃退。
  • 【讃岐】長宗我部氏、香川氏と同盟を結ぶ。

上記の2年間の出来事は、年月がはっきりせず、3国同時の経略とあって時系列での説明が困難なため、本稿では各国毎にみていこうと思う。

阿波の経略

まずは阿波経略だが、同国では三好長治が倒れ、元親が重要拠点となる白地を攻略したのは前の記事で述べたとおりであり、天正6年(1578)には三好長治の弟・十河在保が後継者となって阿波国勝瑞城へ入り、元親と戦うことになる。

白地を拠点として長宗我部方はまず、久武親信と大西上野介(大西覚養の弟か。)が美馬郡の重清城を攻めとり、これによって、近辺の志摩・青野等の諸将らも降ったという。

その後まもなく、長宗我部勢は同郡の阿波岩倉城へも攻め入って、城将で三好一族の三好康俊を降したようだ。
しかし、三好方も所領奪還に向けた反撃にでて、同年10月に元親従属下の大西氏を攻めたといい、このとき大西覚養が再び三好方へと従属したとみられる。

さらに三好勢は、翌天正7年(1579)に岩倉城奪回に押し寄せてきたが、長宗我部勢は途中、城外へ打って出て鉄砲をあびせ、数百人を討ち取って撃退したという。

この激戦で打撃を受けた三好勢は、その後、家中で謀反の噂が立ったことから居城・勝瑞城を退去して讃岐へ逃れたため、元親はここに一宮成相を入れて一時的に同城を支配することに成功するのだ。

讃岐の経略

次に讃岐の経略だが、天正6年(1578)に元親が豊田郡藤目城を奪取したことがその第一歩とみられる。

ここで以下、讃岐のこれまでを概説しておこう。

  • 讃岐は南北朝期以来、細川氏が守護として支配。
  • 戦国期に入り、細川から三好に政権が移ると、三好氏が支配。
  • 信長の台頭によって、三好氏は弱体化。
  • やがて讃岐の有力国衆である香川氏や香西氏らが三好から離反。

このように元親が四国進出をはじめる頃には、西讃岐=香川氏、中讃岐=香西氏、東讃岐=十河氏というように、讃岐国は三好氏による統治が崩壊し、割拠状態となっていた。

藤目城攻略は、城主・斎藤下総守が縁者にあたる大西上野介を頼り、人質を提出して降ったことにあった。 しかし、まもなくして、十河存保の命をうけた奈良太郎兵らに攻めとられてしまったため、今度は元親自らが指揮を執って激戦を繰り広げることになる。

『元親記』によれば、「鬨の声や鉄砲の音で天地が震動ふるえるほど激しい攻防だった」と伝えており、長宗我部方は700人ほどの犠牲者を出して、ようやく藤目城を攻め落としたという。
戦後、元親は再び斎藤下総守に守備させると、続いて香川氏の財田城も陥落させている。

このように元親は、阿波だけでなく、讃岐においても三好勢力と攻防を繰り広げていたのである。

西讃岐の香川氏と同盟へ

天正7年(1579)には、元親の讃岐攻略が大きく前進する出来事、すなわち西讃岐最大の勢力・香川信景との同盟が成った。

香川氏は、長宗我部と同じようにはじめは管領細川氏に仕え、西讃岐の守護代を務めた。中央政権が三好氏に移ってからはこれに服属したが、三好氏の没落過程で三好氏から独立。
信景はこのころ、信長に接近して、従属下にあったようだ。

長宗我部氏と香川氏は、それぞれが三好勢と対立、さらに織田政権とも誼を通じていたため、双方の同盟は悪くない話だったのである。

こうして元親は、香川氏に和睦を持ちかけ、元親の二男・親和を婿養子として香川信景の娘を娶わすことになって同盟を結んだ。
西讃岐を手中に収めた元親は、同年11月までに那珂郡の長尾氏とも和睦し、長尾に新城を築いて一門衆の国吉親綱を配置し、讃岐の軍代に任命したようである。

伊予の経略

最後に伊予の経略について。

すでに南伊予へ進出していた元親だが、長宗我部方と東伊予の国衆が同盟を締結したという文書が残っていることから、東伊予へも手を伸ばしていたようだ。
時期ははっきりしないが、阿波の要所である白地の攻略後、すなわち天正5~7年(1577-79)あたりと考えられている。

また、伊予方面の軍代となった久武親信が、天正6年(1578)に南伊予へ出兵しており、翌天正7年(1579)には非業の死を遂げている。

『長元記』によると、同年に伊予岡本城が長宗我部方に内通していたため、親信は岡本城へ向かったが、岡本城周辺の地形は険しく、敵将の土居清良率いる伏兵の鉄砲隊によって討ち取られたとされている。

なお、この戦いで、伊予の守護・河野氏が土居清良に感状を送っているため、この時点で長宗我部氏と河野氏は敵対関係となっていたことがわかる。

中央の情勢と長宗我部氏

ここで、この2年間における中央の情勢と長宗我部氏との関係もみてみよう。

まずは織田信長と元親の関係だが、天正6年(1578)の文書で以下のことが確認できるため、元親は明智光秀を介して引き続き、信長と良好な関係を続けていたとみられる。

  • 元親の嫡男・弥三郎(のちの信親)が信長の一字を拝領した点。
  • 元親が、上記の事と阿波攻略の事を、義兄の石谷頼辰に伝えている点。

次に「織田氏 vs 毛利氏」の情勢だが、同年に関しては以下のように毛利方が優勢であった。

  • 播磨国の別所長治が織田から毛利へ転じる。
  • 織田方の尼子再興軍が守備する上月城が、毛利軍によって陥落させられる。
  • 信長家臣の荒木村重が謀反、摂津有岡城へ籠城して毛利に通じる。

しかし、翌天正7年(1579)になると・・・

  • 備前国の宇喜多直家が毛利から織田へ転じる。
  • 織田方の攻撃で有岡城が陥落。
  • 毛利方の伯耆羽衣石城の南条氏が謀反。
  • 年末には三木城が陥落寸前に。

上述のように戦局は次第に織田方優勢に傾いていったのである。

最後に、同年末には毛利氏と元親の関係もうかがえる。
というのも、毛利方の小早川隆景が、長宗我部氏と河野氏の和睦に動いていた形跡があるのである。

実際、以後しばらくは両者の対立がみられないことから、毛利が和睦を仲介したと考えられている。 つまり、長宗我部氏は織田・毛利のいずれとも敵対関係になかったのだ。

元親は2重外交を行なっていたとみてもいいかもしれない。


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