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一転して信長に睨まれ、元親最大の危機へ!(1580-82年)

四国進出の過程において、これまで織田信長と友好関係にあった元親だが、天正8年(1580)に入ってしばらくすると、その関係に陰りがみえはじめる。

信長と元親の間に不協和音

同年6月、元親は弟の香宗我部親泰を派遣して三好康俊を服属させたことの報告、さらに阿波国の支配を目的として、三好康長との友好を信長に依頼している。
これに対して信長は異議がなかったようだ。

また、時期は定かでないが、『元親記』によれば、「四国のことは元親の手柄次第に切り取ればよい」との信長の朱印状を与えられたという。

しかし、この後に事件が起きる。

本願寺の残党が阿波へ侵入

時期ははっきりしないが、同年、元親が讃岐の十河城・羽床城を包囲中に、大阪本願寺の残党が三好氏を頼って阿波国へ入ってきた。

彼らは紀伊の雑賀衆と淡路の勢力を引き連れて、三好の本拠である阿波国勝瑞城を長宗我部方から取り戻したといい、続けて一宮城も包囲したという。

これに乗じて牛岐城主・新開道善も雑賀と結んで背いたようだが、これは長宗我部方に敗北したようだ。 また、勝瑞城の過半は雑賀の連中が支配するような状況になったとの記録もある。

このように三好氏が本拠に復帰すると、隣の讃岐国でも動揺がおき、長宗我部から離反する国衆が相次ぎ、ここにきて元親の四国経略は膠着状態となる。

ここで、同年の中央戦局における本願寺と雑賀衆についてみていこう。

雑賀衆は、以前から本願寺らとともに反織田勢力として戦っていたものの、既に信長と和睦を結んでいた。ただ、一部の残党勢力はまだ本願寺に加担して信長に抵抗していたようである。

しかし、同年に本願寺顕如が信長と和睦を結んで雑賀へ向かうと、信長に抵抗する雑賀衆はいなくなったとみられている。
ちなみに、顕如の子・教如はそのまま本願寺に籠もって信長に抵抗する姿勢をみせたが、8月までに本願寺を明け渡している。

つまり、本願寺顕如が雑賀へ行ってからは、本願寺も雑賀衆も基本的には信長と敵対関係ではなくなったということである。

信長に疑念をもつ元親

ここで疑問となるのは、本願寺の残党や雑賀衆はなぜ、三好氏に加担して阿波へ攻めてきたのだろうか?

この疑問は元親自身が抱いたようであり、同年11月に元親から信長重臣・羽柴秀吉に宛てた書状でうかがえるのだ。

書状では元親が秀吉に以下の旨のことを伝えている。

  • 紀伊の者(=雑賀衆か?)が四国における朱印状をもらって蜂起しているが、これは信長公のどういう命令か?
  • 上記の理由がわからないので、紀伊の者への攻撃を遠慮した。
  • 阿波と讃岐を攻略した暁には、西方の戦争を手伝わせていただく。
  • 紀伊の者を押さえてくれれば、阿波・讃岐両国の征服はすぐにでも可能だ。

これをみる限り、元親は信長自身が本願寺の残党勢力を動かしているのではないかと疑念を抱いている。また、そうした中でも元親は信長に従う姿勢を崩していないのがわかる。

結局のところ、阿波へ侵入した本願寺の残党や雑賀衆が、単に反信長の集合体だったのか、それとも元親が言うように信長の手足として動いた者なのか、わかっていない。

三好康長に介入させる信長

一方で同じ頃、信長は淡路国を平定し、ついに三好康長に阿波・讃岐平定を命じた。

三好康長は、三好一族で三好長慶の叔父にあたり、宗家の三好義継が滅ぼされた後も、幾内で最後まで信長に抵抗していた。ただ、このときは既に信長の家臣として本願寺との和睦交渉も担当するなど、重用されていた人物である。

康長は阿波国の回復を望んでいたが、さらに讃岐国の十河在保、伊予の河野氏や西園寺氏もまた、元親に奪われた所領回復を望んで信長を頼っていたようである。

天正9年(1581)3月には、康長が阿波の岩倉城に入って長宗我部方にあった同族の三好康俊を説得して織田方に寝返らせ、十河存保と共同で失地回復を企てたといい、元親に服属していた国衆らも康長へ転じる動きがみられたという。

信長が四国への介入を決めたのは、さらに何者かが讒言したことにあったようだ。
すなわち、信長が元親の四国制覇を手柄次第としていたことに対し、

  • 元親は西国に並ぶものがないほどの武士
  • だから今後(信長の)天下統一の妨げになる
  • 元親が阿波と讃岐を制圧すれば、すぐに淡路にも手を出す
との事であった。

信長はこれを聞いて、「伊予・讃岐を取り上げ、土佐と阿波の南半国の支配のみを認める」と元親に言ったようだ。

一条内政の追放

信長との決裂が迫る中、同年には兼定の子・一条内政が元親によって追放されるという出来事もあった。

元親は以前、一条家臣と共謀して兼定を土佐から追放していたが、そのときに内政を当主として娘を娶らせ、土佐長岡郡大津城に移していた。つまり、元親は内政を傀儡の当主に仕立てて一条家の実権を掌握していたのである。

追放の理由は、謀反を企てた波川清宗と共謀していたとする(『元親記』)。
また、信長は「土佐の国主は一条内政で、元親はその補佐役」との認識をもっていたといい(『信長公記』)、これが内政の追放に関係しているとの見解もあるようだ。

なお、内政は船で伊予国の法華津に送られ、内政の妻子は岡豊に留め置かれた。また、イエズス会の史料によると、元親は同年に一条兼定と和睦し、兼定が家臣らと暮らす上で十分な収入が見込まれる島を与えたという。

絶対絶命!信長の四国出兵

三好康長を派遣して四国に介入する信長に対し、元親は「四国は自分の手柄で切り取ったものであり、信長からの恩義ではない。思ってもないことに、驚いている。」(『元親記』)と言って反発したという。

天正10年(1582)2月には、明智光秀の使者として元親の義兄・石谷兵部少輔が元親のもとにやってきているが、そのときの内容は残念ながらわかっていない。

そして同年5月7日、信長は従わない元親をよそに、ついに四国遠征を決定した。
このとき、信長は三男の織田信孝に対して以下の計画を伝えている。

  • 信孝を三好康長の養子とする。
  • 讃岐国を信孝に、阿波国を三好康長に与える。
  • 伊予国・土佐国については信長が淡路に到着してから決める。

5月11日、信孝は丹羽長秀・津田信純・蜂屋頼隆を副将として大坂・堺方面に兵を集結させ、6月3日に出発する予定を立てた。 また、すでに三好康長は先鋒隊として渡海して阿波国勝瑞城に入り、長宗我部方の一宮城・夷山城を攻め落としたという。

信長に降参か?

信長の四国介入を拒絶し、窮地に立たされた元親だが、実はここにきて一転して従う姿勢をみせたようだ。
5月21日付けの斎藤利三に宛てた元親書状でうかがえる。

  • 今回、進物の用意が間にあわず、信長の命令を受けるのが遅れた。
  • 一宮城、夷山城、畑山城、牛岐城、仁宇城など、信長の命令に応じて明け渡す
  • 海部城と大西城は、土佐の入口を守る要所だから長宗我部方に残してほしい。讃岐と阿波がほしいわけではない

上記をみるかぎり、さすがの元親も信長相手に戦うのは無謀とみて、必死に弁明したようだ。
しかし、その後に元親にとって九死に一生を得る出来事が起きる。

6月2日の本能寺の変である。この驚愕の出来事により、翌3日に予定されていた信孝らの四国出兵は中止となった。

元親は、長宗我部氏と縁の深い明智光秀の謀反により、奇跡的なタイミングで難を逃れたのであった。


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