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三好方との激戦「中富川の戦い」と勝瑞城攻略(1582年)

信長死後の織田氏と長宗我部氏

天正10年(1582)6月2日に、信長が本能寺の変によって横死すると、翌日に四国への出兵を予定していた織田信孝丹羽長秀らの兵の多くは狼狽し、逃亡するものが相次いだようだ。
このため、十分な兵力をもたない信孝らはすぐに明智討伐に向かうことができず、中国攻めから引き返した羽柴秀吉の大軍勢と合流を待ち、弔い合戦の主役は秀吉に譲るハメとなった。

そして明智光秀は、本能寺の変からわずか11日後に秀吉に討たれるという、あまりにも短い天下となった。

一方、四国では織田方の先鋒として阿波国に渡海していた三好康長が阿波から脱出し、これを好機とみた長宗我部方は、元親嫡男の信親が一宮城と夷山城の奪回を主張したが、元親は病中にあって8月まで兵を休めるように命じたようだ。
しかし、信親はこれに従わすに密かに小姓らの手勢を率いて阿波へ出発し、海部に到着して叔父の香宗我部親泰を頼った。 これに元親は使者を派遣し、「三好との決戦を前に兵を疲れさせてはならぬ」として信親を説得し、信親はやむを得ずに岡豊に帰ったという。(『元親記』)

清洲会議

その後の6月27日、織田家では後継者問題と所領の再分配のため、尾張の清洲に4人の重臣、すなわち、羽柴秀吉・柴田勝家・丹羽長秀・池田恒興が集まり、会議が開かれた。
このとき、勝家は織田信孝を後継者に推すが、秀吉が三法師(織田信忠の嫡男)を擁立して意見がぶつかり、結果的に光秀を討伐して家中で影響力を強めた秀吉に軍配があがったのである。

ここに秀吉派と勝家派の対立関係が醸成され、両派はまもなく織田家の覇権争いに発展することになる。

十河城の戦い(讃岐)

元親は、三好との決戦に先立って6月中に東伊予・西讃岐の諸将に出陣命令を出し、7月末頃から東讃岐への侵略を開始させていた。
そして8月に入り、香川親和率いる1万余の軍勢に十河城を包囲させたが、城将の十河存之は籠城戦の構えをとったことで長期戦となる。

中富川の戦い(阿波)

同じ頃、充電期間を終えた元親自身もまた、予定どおりに阿波で三好との決戦を実行に移す。

元親は決戦を前に土佐国の本拠・岡豊城内で軍議を開き、家老衆と一領具足衆をそれぞれ別室で意見を聞いてみたといい、短期決戦を唱える一領具足衆の意見をとりいれたという。(『長元物語』)
また、『元親記』によると、元親は身分を不問として15~60歳の範囲で兵士を募集している。

こうして元親は、弟の香宗我部親泰をはじめ、従属下の多くの諸将に出陣命令を出すとともに、土佐本隊を率いて岡豊を出発したのである。

十河存保の守る勝瑞城へ向けて進軍していた長宗我部の軍勢は、8月27日に中島(名西郡)に集結し、総勢2万3千ともいわれる。これより先、十河存保は勝瑞城近くに兵を集結させて陣取り、迎撃態勢を整えていた。

8月28日、ここに中富川をはさんで長宗我部・三好の両軍が対峙し、開戦。
長宗我部先陣の親泰隊が中津川を渡って突撃してから、両軍激しい攻防を繰り広げた末、勝瑞城にまで追いやった長宗我部方の勝利となった。

なお、この戦いで勝瑞城近くの坂西城を攻めていた長宗我部一門衆の比江山親興に対し、元親が「十河存保の勝瑞城を落とせば、自然に降伏するから放っておけ」と命じ、戦後そのとおりとなったので、皆が感嘆したという。(『長元記』)。

勝瑞城(阿波)の攻略

続いて9月に入り、長宗我部勢は勝瑞城へ退却した十河存保を追って、2万の兵で勝瑞城を包囲した。
なお、このとき雑賀衆が長宗我部方に加わったとみられるが、この者たちが三好から転じたのか、反秀吉派の勢力なのかはよくわかっていない。

このころ、一宮城主の一宮成相と新開道善が三好方に内通して、反旗を翻そうと企てていたようであり、元親は9月3日に夷山城で成相を、16日には新開道善を誘い出して謀殺したという。

こうした中、大雨による洪水で勝瑞城の攻略が停滞中に、仙石秀久や黒田官兵衛ら秀吉軍が阿波国へ渡海してきたというが、 これは勝瑞城の救援を命じた秀吉の援軍だったらしく、この時点で秀吉は信長同様、四国制圧の路線に舵を切ったということになろう。

秀吉の援軍が到着したら、元親は窮地に追い込まれるところだったが、数日で水が引いたため、長宗我部方は9月21日に勝瑞城を陥落することができた。

十河存保は逃亡、秀吉軍も撤退

存保は讃岐の虎丸城に落ち延びたといい、元親はまもなく勝瑞城を破却し、岩倉城主の三好康俊を降伏させた。

元親にとって三好康俊はかつて従属下に置いていたが、三好康長の説得によって織田方に転じていた裏切り者である。
だが、元親は康俊を殺さずに追放し、人質にとっていた康俊の子も康長のもとへ送り届けたらしく、あとで康長から感謝されたと伝わる。(『元親記』)

秀吉軍はこの後まもなく、阿波攻略の拠点として木津城・土佐泊城を確保し、撤兵していったらしい。
逆に言えば、木津・土佐泊の2城の除く阿波国の領域はすべて長宗我部方に帰すことになったのだ。

一方で元親ら長宗我部軍は、翌10月に入り、なおも交戦中であった讃岐国・十河城の包囲戦に援軍として向かった。しかし、冬になって兵糧の運搬などに窮したため、ひとまずは帰国したようである。


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