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元親の誕生と初陣「長浜の戦い」(1539-60年)

元親誕生と長宗我部氏の情勢

天文8年(1539)、のちに四国の覇者となる長宗我部元親が土佐国・岡豊城で誕生した。

土佐国は「土佐七雄」と呼ばれる有力国衆、すなわち、一条氏・津野氏・吉良氏・本山氏・安芸氏・大平氏・長宗我部氏・香宗我部氏が台頭していた。

過去に長宗我部氏は、元親の祖父・兼予が傲慢な態度ゆえに周囲から恨まれ、本山氏・大平氏・吉良氏らに攻め込まれて岡豊城を奪われ、当時6歳だった父・国親は一条氏の庇護を受けていたのだ。

つまり、居城を失い、滅亡の危機に瀕していたのだが、その後、一条氏の仲介によって国親が岡豊城へ帰参し、お家再興に向けて、旧領回復と軍備増強に努めていた。
元親が誕生したのは、そのような時期であった。

幼き頃の元親は、生まれつき背が高く、色白で柔和な性格であり、ほとんど物を言わず人に会っても笑うだけで挨拶もなく、周囲からは「姫若子」といわれて馬鹿にされていたという。(『土佐物語』ほか)
この「姫若子」というのは、女性のような容姿という意味ではなく、姫のように引き籠もりがちだった元親の様子のたとえであり、国親も心を痛めていたようだ。

その後、次々と旧領を回復していった国親は、天文23年(1554)頃には出家しており、長岡郡下田村の三所権現を再興もしている。
こうした国親の動きは、元親を元服させて次期当主として家中に認めさせる狙いがあったという見方もあるが、これは推測の域をでない。
なお、この頃の長宗我部氏の所領は、長岡郡南部、土佐郡南西部、香美郡の一部など、土佐国平定に着々と近づきつつあった。元親16歳のときである。

天文24年(1555)になると、本山家当主・本山茂宗が亡くなり、子の茂辰が後を継ぐと、長宗我部氏と本山氏との関係が微妙なものになり、やがて両者が対決の日を迎えることになる。

実は長宗我部氏と本山氏とは、国親が岡豊に帰参したときに和睦を結んで本山茂宗の娘を娶り、また、のちに自身の娘を本山茂辰に嫁ぐという、いわば2重の姻戚関係にあった。
しかし、茂宗の死によってこれが崩れたこと、さらに国親が本山氏に恨みをいだいていたことなどが仲違いとなった一因とも考えられる。

元親の初陣「長浜の戦い」

永禄3年(1560)、ついに本山氏との合戦が始まった。

きっかけは、国親が大津から種崎へ兵糧を搬送中、本山氏家臣が兵糧船を略奪したことにあった。

国親は報復のため、まずは本山氏の支城・長浜城を調略で奪取する計画を立てた。
というのも、かつて国親の家臣で大工でもあった福富右馬丞が、国親に追放されたあとに本山氏に仕えており、長浜城中の工事の大半を手がけていたというのだ。

国親はこれを利用し、右馬丞に報酬をちらつかせて内通したのである。

かくして、同年5月26日に長宗我部軍が夜襲をしかけ、容易に城門を突破して長浜城を奪取したのであった。

これを知った茂辰が驚き、すぐに朝倉城から2千の軍勢で攻め込んできたため、翌27日に長浜城付近で両軍が激突となった。

長宗我部勢は本山軍の半分の1千の軍勢といわれ、数的不利であったものの、乱戦の末に本山軍を押し返して浦戸へ退却させて勝利したという。

このとき22歳の元親は、のちに吉良氏に養子入りする弟・親貞と共に初陣を果たしている。
元親は鑓の突き方を知らなかったため、家臣の秦泉寺豊後に聞いたところ、「敵の眼を突け」と教わったという。
また、いざ合戦が始まると、乱戦になったところで50騎ばかりで、敵軍の中央に突撃を敢行し、自ら2人を討ち取る功をあげたという(『元親記』)。

元親の活躍は、父・国親をはじめ、家臣一同を大いに驚かせたようだ。
以下、『土佐物語』や『長元物語』にみえる元親を賞賛する声である。

  • 「知謀勇気兼備して、尤も大将の才なり」
  • 「当国は申すに及ばず、四国の主に御成なさるべき大将の御分別」

さらに元親は本山の支城・潮江城にも突入し、無人となっていた城を難なく攻略。一方で敵将の茂辰は、浦戸から脱出して朝倉城へと逃げ帰ったのであった。

このように、元親は初陣にしてその武名が一気にあがったのである。


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