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元親、織田の覇権争いへ参戦「引田の戦い」(1583年)

天正11年(1583)、織田家中では2分化された羽柴秀吉陣営と柴田勝家陣営による覇権争いが本格化する。

ここで一旦、信長死後の織田家中の動きを簡潔にみてみよう。

織田家の覇権争いと長宗我部

前年6月の清洲会議では、織田家の新体制は以下のように決定となった。

  • 後継者:信長の嫡孫・三法師(のちの織田秀信)
  • 後見人:織田信雄(信長二男)と織田信孝(信長三男)
  • 傅役:堀秀政
  • 執権:羽柴秀吉、柴田勝家、丹羽長秀池田恒興

上述の体制の中、秀吉は織田家中を掌握するため、丹羽長秀・池田恒興・堀秀政らを味方につけて派閥を形成していくと、 これに危機感を抱いた織田信孝が柴田勝家を味方として反秀吉派を形成。

やがて秀吉は信長の葬儀を取り仕切り、すでに決まっていた後継者を代えて織田信雄を擁立するなど、巧妙に策略を進めていった。秀吉が信孝とは組まず、信雄を擁立したのは、信雄よりも優れた信孝が邪魔だったからに他ならない。

このようにして「信雄・秀吉陣営」vs「信孝・勝家陣営」の構図ができあがると、両陣営はいずれ勃発するであろう合戦に備え、織田家臣団や国外勢力の取り込みに躍起になる。

そして前年末、ついに秀吉は突如挙兵し、近江長浜城の柴田勝豊、続いて岐阜城を織田信孝を降伏させたのだ。

こうした織田家の覇権争いの中で、元親は勝家派として加わることになる。

柴田勝家に加担する元親

元親がいつ勝家と通じたかははっきりしないが、年を越えて同年(1583年)になった頃には勝家方に加担したようだ。
勝家方や高野山から元親の弟・香宗我部親泰に宛てた書状が残っている。(『香宗我部家伝証文』)

  • 「今後は互いに懇意にすべき」(差出人:織田信孝の家臣)
  • 「高野山は勝家に味方することになり、伊賀の国衆と相談している。勝家から ”長宗我部氏に協力するよう言ってほしい”との依頼を受けたゆえ、長宗我部兵を動かしてほしい」(差出人:高野山の僧)

また、都落ちして毛利氏の保護下にあった将軍義昭から、元親に使者が送られてきたようだ。
義昭から伝えられた内容は以下のとおりである。(『石谷家文書』)

  • 毛利氏が土佐(=長宗我部)と伊予(=河野氏)の和睦を願っている
  • 四国と中国は勝家と連携して、義昭を京に戻れるようにしろ

上述のこれらの書状からは、勝家が元親の他にも、将軍義昭や高野山勢力とも連携していたことが伺えよう。
また、元親は伊予方面で河野氏と戦いをしていたが、毛利氏と河野氏は縁戚関係にあるため、毛利は両者の和睦を望んでいたのである。

引田の戦い(讃岐)

2月から、元親は勝家方の要請に応じて、三好方の讃岐国寒川郡の石田城を攻めている。

一方、この頃の十河存保は、元親に阿波・勝瑞城を追われて讃岐へ逃れ、秀吉に援軍を請う有様であった。(『南海通記』)
これに対して秀吉は、長宗我部氏の備えとしていた仙石秀久らの軍勢を讃岐に派遣したが、長宗我部軍の迎撃によって諸城の攻略はままならなかったようだ。

そして元親は4月21日に大川郡引田で、秀吉方の仙石秀久軍と激突することになる。
『元親記』などによる合戦の流れは以下。

  • 元親は讃岐の大川郡引田周辺の麦を薙ぎ、次いで十河存保のいる寒川郡虎丸城を包囲していた。
  • ところが、元親らが弁当を食べていたところに、仙石秀久軍が引田に上陸して奇襲を仕掛けてきた
  • これを知った元親は、桑名親光や中島重勝らを援軍に向かわせた。
  • 香川信景・国吉三郎兵衛・大西上野介らが仙石秀久軍と交戦中に、援軍が到着。
  • 国吉三郎兵衛らが切り込んで一気に形勢逆転、仙石秀久軍は総崩れとなって引田城へ撤退。

こうして長宗我部軍が快勝して多くの敵将を討ち取ったが、一方で国吉三郎兵衛や中島重房らも討死している。 そして翌22日には引田城へ攻撃し、仙石軍を敗走させたのであった。

なお、同じ頃には元親弟の親泰が、阿波国板野郡の木津城を攻略(『香宗我部家伝証文』)し、阿波国においては土佐泊城の攻略を残すのみとしている。

信孝・勝家の敗北

引田の戦いに勝利した元親であったが、実は同じ日、肝心の柴田勝家が秀吉との決戦(賤ヶ岳の戦い)で総崩れとなり、越前・北ノ庄城に向けて敗走していた。
そして同月23日には勝家が、翌5月には信孝も自害し、ここに織田家の覇権争いは秀吉の勝利となって終結した。

秀吉に狙われる元親

これにより、元親は秀吉に狙われることになった。

実際、秀吉は5月13日付の書状で仙石秀久に長宗我部攻めを(『伊予国新宮田辺氏蔵古文書』)、同20日付の書状で石井与次兵衛に艦船を大坂に集結させるように命じている(『石井文書』)。
そして同年中にたびたび、十河在保や仙石秀久らの軍が長宗我部領へ攻め込んだとみられる。

困惑する毛利氏

さて、伊予では長宗我部氏と河野氏が対立し、毛利氏が将軍義昭を通じて和睦を要請していたことは先に述べたが、 元親は伊予国の支配にこだわっていたようであり、同年5月と7月にも和睦の使者が訪れているため、和睦交渉は上手く進んでいなかった。

毛利と長宗我部の関係は、信長生前のときから誼を通じて友好関係が続いていた。
だが、毛利輝元としては、秀吉と既に和睦し、さらに河野氏とも縁戚関係の立場にあったゆえ、この両者と対立する元親には困っていただろう。

秀吉を恐れる

なお、同年末頃には、秀吉に乞う元親の姿がうかがえる。

  • 元親が「阿波・讃岐2か国を手放す代わり、伊予国を与えてほしい」と要求、これに秀吉は「伊予は毛利輝元に渡す」と返答したという。(『毛利家文書』)
  • 秀吉は元親が許しを願っていることを受け入れず、土佐を奪い取って家臣らに与えることに決めた。(『柴田合戦記』)

ここでも元親が伊予にこだわっている様子がみてとれる。
上記のことは真実かどうか定かでないが、いずれにしても元親の四国制覇の夢が遠のいたのは確かである。

また、同じ頃に秀吉との対決を見据えてか、元親は次男・香川親和を讃岐国天霧城に入城させている。
なお、このとき交わしていた親和の養父・香川信景と伊予国衆・金子元宅の文書のやりとりから、以下の点がわかる。(『金子文書』)

  • 毛利輝元と秀吉との領地交渉が確定した。
  • 毛利と長宗我部の友好関係は維持できている。
  • 長宗我部は引き続き河野の動向に注視する。


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