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長宗我部元親、ついに四国統一?(1584-85年)

元親は、織田家の権力闘争で柴田勝家に味方したものの、勝家の敗北によって羽柴秀吉とは完全に対立路線となり、さらに和睦交渉では秀吉にそっぽを向かれてしまっていた。

天正12年(1584)の正月、元親は金子元宅に宛てた書状でその胸中を吐露している。

  • 秀吉が毛利に讃岐と阿波攻めへの出陣を要請している
  • 毛利輝元とは密かに友好関係にあるが、現状の情勢ではどうなるかわからない。
  • 東伊予では金子元宅を特に頼っている。

上述のように、元親にとって頼みの綱の毛利輝元も、既に秀吉と和睦しており、元親は秀吉がいつ攻めてくるかと戦々恐々としていたようだ。

小牧・長久手の戦いが勃発

しかし、まもなくしてこの窮地を打破できるかもしれない機会がやってきた。それは秀吉と徳川家康との唯一の衝突となった小牧・長久手の戦いである。

秀吉は織田家中を完全に掌握するにあたり、信長二男の織田信雄がジャマであった。
信雄と不和になっていった秀吉は、信雄の重臣である三家老(津川義冬、岡田重孝、浅井長時)を味方にしようと動くが、同年3月には、これを察知した信雄が三家老を粛清する事件が発生した。

これがきっかけで秀吉はこれを信雄討伐の口実としたが、一方で信雄は家康に援助を求め、家康がこれに応じて開戦となった。

信雄・家康に加担する元親

元親のもとにも、開戦前に信雄サイドから連携の打診がきており、これに元親が応じたのはいうまでもない。
書状によると、元親は淡路国への出陣と、毛利輝元との仲介を要請されている(『香宗我部家伝証文』)。つまり、秀吉を背後から牽制し、大大名である毛利氏を味方に導いてほしいということだ。

一方で、信雄は雑賀衆・根来衆にも協力を要請しており、3月中旬には早くも和泉に出兵したようだ。(『貝塚御座所日記』)

3月17日には家康・信雄連合と秀吉との衝突が開始されたが、元親は秀吉を背後から牽制して出陣させないようにしたとみられ、秀吉は背後の備えを行なった後、3月27日にようやく東へ向かい尾張国の犬山城に入ったという(『家忠日記』ほか)。

讃岐平定?「十河城の戦い」

しかし、元親による淡路出兵は、実際にはなかなか厳しかった。というのも、四国の敵対勢力や秀吉方の仙石秀久軍との戦い、さらには毛利氏の動静など、余力がなかったからだ。
このため、元親は四国統一の戦いに専念せざるを得ず、5月には讃岐を攻めた。

6月11日付けの書状では、香宗我部親泰が信雄に "讃岐の十河城を陥落させた" 旨を報告しており、同18日付けの書状で、元親は根来・雑賀の僧徒に対して摂津国への出兵を約束していたようだ。

『元親記』では、この十河城陥落をもって、元親の讃岐平定が達成されたように伝わっているが、同城陥落の後、長宗我部軍は続けて讃岐・虎丸城を包囲して、同7月中旬の時点で攻略に難航していた(『金子文書』『愛媛県史』)ようであり、結果的に陥落までに至らなかったとみられている。

8月には、家康重臣の井伊直政本多正信から書状が届き、淡路のほかに摂津や播磨への出兵依頼、3ヵ国知行の約束などを伝えられている(『香宗我部家伝証文』)。

長宗我部と毛利の関係が崩壊

同じ頃、毛利氏が支援する河野氏と元親に従属する伊予国衆との戦いは激化の一途をたどっており、毛利と長宗我部の両氏は、衝突に向けてそれぞれが備えを進めていた。

同月、元親の外交僧の栄音が金子元宅に対し、以下ような内容を伝えている。(『金子文書』)

  • 長宗我部軍は国をあげて三間(北宇和郡)・郡内(喜多郡)方面へ出陣する覚悟だ。
  • 8月16、17日頃に出兵を予定しており、近日中には金子氏の苦心も終るであろう。
  • 毛利の軍が渡海してきたら、阿波から香宗我部親泰、さらに土佐からも援軍をだす。
  • 毛利輝元・河野通直が秀吉に味方していても心配ない。

さらに9月1日付けの書状では、元親家臣・久武親直が三間(北宇和郡)を守備し、情勢に応じて出陣するとも言っている。(『金子文書』)
そしてついに9月11日、元親から伊予国の軍代を任せられた久武親直が出陣し、伊予宇和郡の深田城を攻略した。

ここに長宗我部と毛利の関係は完全に破綻となったのだ。

元親、孤立を余儀なくされる。

その後、元親は伊予への攻勢を強め、10月に西園寺氏の本拠・黒瀬城を攻略したのをはじめ、以降次々と敵城を攻め落としていった。
そして11月には、元親は紀伊の根来衆・雑賀衆と連携して大坂城の挟撃を計画し、軍備を整えて、家康へも西上を要請していたが、これは実現することはなかった。

実はこの作戦の少し前、信雄が秀吉の軍勢に攻め込まれて単独で講和し、織田家の恩に報いるという大義名分を失った家康も手を引いて小牧長久手の戦いは終わっていたのである。

このため、元親や紀伊の雑賀衆・根来衆は孤立し、再び秀吉の軍勢の脅威にさらされることになる。

ついに四国統一?

小牧長久手の戦いが終結した後、元親は四国制覇に向けて伊予国の攻略を進めていき、翌天正13年(1585)の春頃には河野氏をはじめ、残る伊予の敵対勢力も降伏し、ついに四国統一を成し遂げた・・・。
というのが、これまでの通説であった。

しかし、近年の研究で、元親の四国統一は達成されていなかったことの指摘が多く出されている。指摘事項とは以下のようなものだ。

  • 阿波の土佐泊城の落城が、一次史料で確認できない。
  • 讃岐の虎丸城の落城が、一次史料で確認できない。
  • 『長元記』に、十河在保が降伏せず、元親は讃岐の虎丸城を落とせなかったとある。
  • 伊予の河野氏の降伏は、軍記物『土佐物語』でしか確認できない。
  • 伊予の河野氏は、一次史料からみて、抵抗を続けていたと解釈すべき。

・・・残念ながら、現在では元親の四国統一は多く否定されているようだ。


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