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元親、秀吉の四国攻めにあえなく降伏(1585年)

これまでの通説で、元親の四国制覇は天正13年(1585)の春頃に成し遂げられたとされてきたが、実際にはそうでない可能性が高いことは前の記事で述べた。元親が四国制覇を果たしたかどうかはさておき、本稿では同年の夏に行なわれた羽柴秀吉による "四国攻め" のいきさつと戦いの経過をみていきたい。

元親、秀吉に懇願?

秀吉は、前年(1584年)の信雄・家康連合との戦い(=小牧・長久手)で対立した長宗我部氏や紀伊の雑賀勢力の討伐を考えており、同年春頃までの元親の実情といえば、その秀吉との和睦交渉などで、四国制覇の戦いに専念するどころではなかったように思う。
もっと言えば、元親は降伏の条件を決めるための交渉を行なっていたようにも受け取れる。

以下に、元親のvs秀吉外交の足跡をみてみよう。

同年の正月17日付けの、蜂須賀正勝黒田官兵衛の連署による書状では、毛利家臣の井上春忠に対し、以下の旨のことを伝えている。(『小早川文書』)

  • 羽柴‐毛利間の婚姻締結のことや、人質の小早川秀包のこと。
  • 秀吉は3月には紀伊国雑賀を攻めること。
  • 秀吉は夏に四国を攻める予定であること。
  • 秀吉は伊予・土佐両国を毛利氏に与えること。
  • 元親から色々懇願されているが、秀吉はこれを受け入れないこと。

さらに同じころ、毛利輝元も児玉元良に対して「秀吉が伊予・土佐両国を毛利家に渡すと伝えてきた」と言っている。(『山口県史』)

上述のように、元親は土佐・伊予2か国の安堵を秀吉に懇願していたが、これら2か国は毛利に渡すとして拒否されていたのだ。

四国出兵が延期になった意外な理由

こうした中、秀吉による根来衆・雑賀衆の討伐が3月から4月にかけて実施され、根来・雑賀衆は壊滅した。

そして、続けて四国攻めに取り掛かろうとする秀吉だが、出兵はたびたび延期となったようだ。
以下にその過程を記す。

  • 4月14日、秀吉は小早川隆景に和泉と紀伊の平定、さらに近々四国への出兵を知らせる(『小早川文書』)。
  • 4月17日、毛利輝元が四国攻めに向け、湯浅将宗に準備させ、児玉就光には船舶の用意を命じる。
  • 5月1日、吉川元春は子の元長を総大将として出陣させるため、各部将に出陣準備をさせる(『小早川文書』ほか)。
  • 5月上旬、秀吉は「6月3日を四国出馬の日」とし、官兵衛を淡路に渡航させる等している。
  • さらに弟の羽柴秀長(=豊臣秀長)に四国出馬を命じて和泉・紀伊の船舶を取り立て、小早川隆景にも出陣の用意を伝える。
  • 5月24日、病気にかかったとみられる秀吉が、諸社寺で平癒祈願を行う。
  • 5月下旬、四国攻めの日を6月16日に変更する。

ところで、上述のように4月の出兵予定が6月にずれ込んだのはなぜなのか?
これには以外な事情があった。

本願寺の記録『貝塚御座所日記』に「元親と秀吉の和睦交渉は成立しようとしていたが、毛利氏の望みでそれが断たれた」という旨の内容があり、また、『小早川文書』等では「秀吉は、伊予国を求める毛利家に配慮し、人質を返却して四国出兵を決意した」という。

実のところ、元親と秀吉の外交交渉は正月以降も続いていたのだ。

一旦は元親の要求を一蹴した秀吉だが、元親が土佐・伊予2か国の安堵と引き換えに、以下の点を申し出たという。

  • 嫡男の長宗我部信親を大阪に居住させ、奉公させる。
  • 信親の他、実子をもう1人人質として提出する。

これで秀吉も手を打とうとしたが、伊予国を望む毛利氏に配慮する形で、最終的に同盟締結に至らなかったというのが真相のようだ。

防御体制を整える元親

一方、秀吉との和睦交渉の見通しが立たない中、元親は決戦に向けて阿波・讃岐・伊予の三方面の防備を整えていた。

特に阿波国は秀吉軍の攻撃の前線に位置すると考え、ここに主力を投入したようだ。
以下、同国における長宗我部方の配備である。

  • 木津城:東条関兵衛
  • 一宮城:江村孫左衛門(親俊)・谷忠兵衛(忠澄)
  • 渭山城:吉田孫左衛門
  • 牛岐城:香宗我部親泰
  • 富岡城、海部城:親泰の配下の将
  • 岩倉城:比江山親興
  • 脇城:長宗我部親吉

元親が岡豊城を発ったのがいつなのか定かでないが、5月17日には大西、18日に阿波の岩倉に入ったという。(『麻殖郡木屋平村松家文書』ほか)
その後、元親は讃岐や伊予と連絡のとりやすい阿波の要所・白地を本陣にしたとみられる。

なお、元親は同じ頃に、伊予国新居郡の金子元宅と「元宅が討死しても子孫を引き立てる」との約束を交わしている(『金子文書』ほか)。ちなみに元宅は子の毘沙寿丸に遺書を残したというから、討死を最初から覚悟していたようだ。(『金子文書』)

秀吉軍が大挙襲来「四国征伐」

6月、秀吉は和泉国岸和田に本営を設け、3方面から四国へ攻め込むように全軍を指揮し、16日にはついに総大将の羽柴秀長の軍勢が堺を発ち、淡路国洲本へと到着した。
秀長に対し、阿波担当の軍勢を順番に渡海させるように命じ、一方で毛利にも出馬を要請している。

3方面における秀吉軍の主力は以下のとおりだ。

  • 伊予国:毛利輝元、小早川隆景、吉川元長ら
  • 讃岐国:宇喜多秀家、蜂須賀正勝、黒田官兵衛ら
  • 阿波国:羽柴秀長(本隊)、羽柴秀次ら

四国への渡海前には、羽柴秀次(=豊臣秀次)が播磨国から淡路へ渡って秀長本隊と、さらに備前の宇喜多秀家が播磨からの蜂須賀・黒田らと、それぞれ合流している。そして、6月下旬から7月にかけ、3方面から次々と四国へ攻め込んできたのであった。

なお、この時期には讃岐・阿波の寺社が次々と禁制の発給を求めてきている。

以下、3方面それぞれに戦線をみていこう。

阿波方面

阿波国へ侵入した秀長・秀次らの軍勢は、総勢8万余といい、まずは三好氏の拠点・土佐泊城へ入った。

続けて東條関之兵衛が守備する木津城を包囲し、7月5日には降伏・開城させている。
このとき、関之兵衛は土佐へ逃げたが、秀長と会っていたとの噂が流れて元親が激怒し、切腹させられたという。(『元親記』)

また、時期ははっきりしないが、途中で讃岐方面軍の宇喜多・蜂須賀正・黒田勢が合流してきたようだ。

合流後、秀長は軍勢を三手に分けたといい、自らは讃岐から合流した宇喜多勢とともに一宮城の攻撃を、一方の秀次勢は牛岐城を攻め取って、7月15日には脇城への攻撃を行なっている。
なお、牛岐城を守備していた香宗我部親泰は、渭山城の吉田孫左衛門と軍議を練ろうとしていたところ、関之兵衛の守る木津城の陥落を知り、早々に土佐へ引きあげたという。

こうした中、江村親俊・谷忠澄の守備する一宮城は、秀長率いる大軍勢の攻めにもよく持ちこたえていた。

7月19日付の、秀長→隆景宛ての書状で、秀長は「元親が後詰にきたら討ち取ろうと考えていたところ、出陣してこないのは残念だ」と言っている。

なかなか陥落しない一宮城と脇城に対し、秀吉の命で水攻めが行なわれたようであり、陥落は時間の問題であった。

讃岐方面

元親は讃岐国の防衛策として、一門衆の戸波親武が守備する植田城の防備を強化していた。
というのも、この植田城は「南は深山、大手口は深き谷」という要害で堅固な城地であり、元親は秀吉軍が攻め込んできたら、これを包囲して夜討ちする作戦を立てていたという。

ただ、この作戦は智将・黒田官兵衛に見破られて上手くいかなかったようだ。
おおむねの流れは以下のとおり。(『黒田家譜』『元親記』ほか)

  1. 讃岐方面担当の宇喜多・黒田らの軍は、はじめ屋島に上陸し、高松に向かって喜岡城を陥落させた。
  2. 官兵衛は長宗我部の拠点が長尾城と植田城であることを知り、植田へ軍勢を派遣。
  3. すると、道中の城が次々と降伏してきた。
  4. 官兵衛は植田を偵察し、讃岐よりも元親のいる阿波を先に攻撃すべきと主張。
  5. 宇喜多・黒田らの軍は阿波へ向かい、羽柴秀次の軍に合流した。

伊予方面

伊予攻めは、6月末より7月初め頃から毛利勢3万余が東伊予の新居郡へ上陸したとみられる。

7月14日には、丸山城が陥落し、続いて金子元宅が守備する高尾城も包囲されてしまうが、隆景が「加勢にくる長宗我部勢を撃退してから攻め落とそう」とのことで、毛利勢の攻撃は一旦中断されたらしい。
その後、援軍の長宗我部勢は撃退されたようであり、結局7月17日に高尾城は陥落、元宅ら長宗我部勢600余人が討ち取られたという。

以後、毛利勢による各諸城の攻略が次々とすすみ、高峠城・霊山城・重茂城・竜岡城などが攻略されたといい(『澄水記』『予陽盛衰記』など)、7月中旬までには東伊予の大半が毛利勢に支配された。

この間、毛利勢はたびたび秀吉に戦況報告をしており、この後に宇摩郡の仏殿を攻め、さらに讃岐国へ進軍して天霧城へ攻め込もうと考えていたようだ。

元親、ついに降伏へ

これまでみたように3方面からの秀吉軍の攻勢により、元親は窮地に立たされつつあった。

こうした中、元親はついに降伏を決断するが、そのいきさつはどうだったのだろうか。

『元親記』などによれば、一宮城を守る谷忠澄は、秀長から「早い段階で降伏したほうが元親にとっても有利だ」と降伏をうながされ、これを斡旋したのがきっかけであった。

以下、元親が降伏を決断した名場面を紹介しよう。(『元親記』『土佐物語』などより)

-- 【元親本陣】 --

谷忠澄

殿。秀長が降伏を伝えてきました。

かくかくしかじか・・・・とのことでございます。

家来アイコン

谷忠澄は秀長の言葉を伝え、元親に降伏するように進言した。

これに元親は激怒。

元親アイコン

元親

西国で名を知られたこのわしが、一戦もせずに降伏するなど、屍になるよりも恥じゃ!

元親アイコン

元親

汝がそれ程の不覚者とは思わずに城を預けたのは、わしの落ち度じゃ。急いで一宮へ帰って腹を切れ!

このように大声で叱りつけられた忠澄であったが、説得をあきらめずに重臣らとも相談した。

谷忠澄

実は、かくかくしかじか・・・・ということなのじゃ。

家来アイコン

重臣たち

重臣A:うむ、谷殿の言うことはもっともじゃ。
重臣B:わが城が持ちこたえているうちに降伏したほうがよいじゃろう。

家来アイコン

こうして皆が賛同し、忠澄は重臣らとともに、再度元親の説得を試みた。
これに対して元親は・・・

元親アイコン

元親

汝らがそれ程に腰を抜したならば、力及ばぬだろう。この上はどうにでも汝等の考えるところに任そう。

そう言い、降伏を承知したという。


このようにして7月25日には、一宮城の江村親頼と谷忠澄のもとに、秀長からの書状が届き、以下のことを保証された。

  • 土佐一国が与えられるように努力する。
  • 5日間は合戦を停止する。

その2日後の27日には、秀長は秀吉から長宗我部の処遇をすべて任されたようであり、ここに元親は秀吉にひれ伏したのである。

四国国分

降伏条件は以下のように、土佐国を除く長宗我部領の没収と人質提出であった。

  • 土佐一国のみを与えること。
  • 嫡男信親を大阪に住まわせること。
  • 二男の香川五郎次郎や家老を人質として差し出すこと。

なお、実際に差し出された人質は、三男の津野親忠、家老は江村親頼となっている。二男の香川五郎次郎は病弱だったことで三男に代えられたのだろう。

また、元親降伏後まもなくの8月4日には、戦後処理として四国の所領配分などの方針、いわゆる"四国国分"が示され、阿波国は蜂須賀家政、伊予国は小早川隆景、讃岐国は仙石秀久にそれぞれ与えられることになった。


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