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豊臣政権下で九州出兵「戸次川の戦い」(1585-87年)

元親、秀吉に謁見

秀吉は四国攻めの最中の天正13年(1585)7月に関白となり、さらに9月には朝廷から豊臣姓を賜った。
実質的な豊臣政権の誕生である。

一方、元親は新たな主君となった秀吉に謁見するため、上洛することになるが、その前に蜂須賀正勝を頼って指南役を依頼しており、また、上洛に関しては藤堂高虎に手ほどきをうけている。

以下、元親上洛の様子をざっくりとまとめてみた。

  • 9月末頃、土佐を出発。
  • 10月3日、紀伊国の加太に着岸。
  • 10月4日、藤堂高虎に上洛の指南を仰ぐ。
  • その後、京都で今井宗久の屋敷に宿泊し、豊臣秀長・藤堂高虎らの付き添いで秀吉に謁見。
  • 国行の太刀・黄金・熊の皮などを秀吉に献上。
  • 秀吉の饗応を受け、能を見物、金子100枚などを下賜され、面会は終了。
  • 10月15日、今井宗久とともに堺に下る。

その後の元親は、10月20日に本願寺顕如に挨拶をすませてから、土佐へ帰国したようである。

天正14年(1586)正月には、再び年賀の挨拶に大阪城の秀吉のもとへ出向いている。
このときに催された宴会では、元親は秀吉から大いに歓待を受け、天守を案内された上で羽織・刀などを与えられたようである。また、8日には再び顕如にも挨拶をし、翌日に帰国した。

以後、元親は豊臣政権下の命令に従い、秀吉のために大いに働くことになるが、その手始めは材木の提供であったようだ。
これは土佐国が木材の産地であったことに起因する。

2月からは京都で秀吉の政庁・聚楽第が着工されているが、元親はその建築資材として材木を提供したとみられる。

九州征伐がはじまる

さて、この頃の秀吉は、最大の敵である徳川家康とも和睦となって懐柔に乗り出しており、6月には越後の上杉景勝を上洛させて臣下の礼をとらせるなど、ほぼ天下を掌握しつつあった。

こうした情勢の中、7月には仙石秀久や元親ら四国勢、黒田官兵衛や毛利氏ら中国勢が九州出兵の命を言い渡されることになる。

九州地区は大友氏と島津氏が覇権を争っていたが、秀吉は関白に就任したことでこれに介入、すなわち朝廷の権威を借りることで前年に惣無事令(=大名どうしの私闘を禁じた法令)を出していた。
しかし、戦局を有利に進めていた島津氏が拒否したため、ここにきて秀吉は島津討伐を決定することにしたのだ。

九州上陸

秀吉は7月中旬に、大友宗麟の子・義統に対し、元親ら四国勢を先鋒として20日には出港させ、到着後には仙石秀久と相談して軍事行動を起こすことを伝えている。(『大分県史』)
ただし、四国勢の兵力2千ほどであり、秀吉からは自分が九州へ向かうまで交戦しないように命じられていた(『フロイス日本史』)といい、四国勢が豊後国へ侵入したのは9月頃とみられているようだ。
一方で黒田官兵衛ら中国勢は、一足先に豊前国へ侵入し、同国小倉城攻めで島津勢と交戦していたとみられる。

その後、九州へ上陸した四国勢は、豊後の府内(大分市)で大友義統と合流・相談の上で豊前国へ向かったようであり、10月13日には豊前国東四郡へ赴いている。(『北里文書』)

だが、これは結果的に失敗となった。というのも、四国勢が豊後を離れて転戦している間に、島津家久の軍勢が豊後国に攻め込み、さらに大友家中に背く者も現れたのだ。

こうした事態の報告を受けた秀吉は、四国勢・および中国勢に以下のことを命じている。

  • 11月13日(四国勢):豊後の府内へ戻ること。また、淡路・阿波の軍勢を派遣すること。(『百瀬文書』)
  • 11月20日(四国勢):兵糧・弾薬を送ること。籠城して持ちこたえること。(『大分県史』)
  • 12月2日(中国勢):豊後で四国勢や淡路・阿波の援軍と合流し、守りを固めること。

戸次川の戦い

12月8日には島津家久が敦賀城を包囲したため、府内にいた元親ら四国勢は救援のために戸次川(大分郡大南町)に陣をしき、軍議で敦賀城の後詰をすることに決定した。

このとき、仙石秀久が川を渡って攻めることを主張し、それに対して元親は以下のように反論していたという。

  • 川を渡って攻め込むなどもっての他だ。伏兵がいることは疑いない。(『土佐物語』)
  • ひとまずは敵を誘いだし、川を隔てて対陣し、加勢を待つべき。(『元親記』)

しかし、十河在保も秀久の意見に同調したため、結局は川を渡って出陣することに決定したという。

しかも、後詰に出発したときには既に敦賀城は落城しており(『フロイス』)、四国勢はこれを知らなかったらしい。さらには島津勢は四国勢が後詰にくることを事前に知っており、兵の多くを伏兵としておいたというのだから、この作戦は戦う前から完全に失敗であった。

合戦は12月12日から翌13日にかけて行なわれ、四国勢は敵が少数なのを好機とみて川を渡ったが、元親が提言したとおり、待ちかまえていた島津勢の伏兵から一斉攻撃を受ける展開となってしまった。

先陣の仙石秀久らの隊は奇襲攻撃によって敗走、元親ら長宗我部隊も激しく交戦したようだが、長宗我部の鉄砲隊は島津勢の突撃によって射撃する暇もあまりなかったらしい。
そして四国勢は一気に窮地におちいり、仙石・長宗我部隊は敗走途中でその多くが溺死する等2300ほどが討死したという。

このとき元親嫡男・信親が退却せずに奮戦したものの、ついには多勢に無勢で討ち取られてしまったという。それを見た元親も自害しようとしたが、家臣に無理矢理連れられて、なんとか府内に退却したのであった。

元親は谷忠澄と恵日寺の僧を使者として島津方に派遣し、遺骸をもらい受けて高野山の奥の院に納めたといい、のちに長浜の天甫寺(高知市)に葬ったとされる。
なお、この戦いではかつて元親と敵対した十河存保も討死している。

秀吉の九州平定と国分

その後、さらに伊予国の日振島まで逃れた元親は、翌天正15年(1587)正月には再び豊後へ入ったとされる。

同年3月には秀吉自ら九州へ出陣、一気に九州征伐はすすみ、5月にはついに島津義久が降伏した。

この後まもなく、元親は秀吉から「仙石秀久の不届きで負けたものの、信親が戦死して忠節を尽くしてくれたゆえ、褒美として大隅国を与える」との旨を伝えられるが、これを辞退している。
その理由は定かでないが、元親が断った理由として以下の点が伝えられている。

  • 「戦功もないのに国をもらうことなどできない」(『南海通記』)
  • 「年老いて国(自領の土佐国)の支配も十分にできていないため、他国の望みはない」(『土佐物語』)

結局、大隅国は島津義弘に与えられることになったが、秀吉→義弘宛ての朱印状をみると、元親が辞退したためというより、島津氏が従順な姿勢をみせたために没収することを取りやめたようにみえる。

なお、参考までに九州平定後の、国分(領土配分)を以下に簡潔に記しておこう。

  • 豊前国:黒田官兵衛、森吉成(毛利勝永の父)、大友義統
  • 豊後国:大友義統
  • 筑前国:小早川隆景
  • 筑後国:小早川隆景、立花宗茂
  • 肥前国:小早川隆景、龍造寺政家、大村喜前、松浦鎮信
  • 肥後国:佐々成政
  • 大隅国:島津氏(島津義弘)
  • 薩摩国:島津氏(島津義久)
  • 日向国:島津氏、伊東祐兵、秋月氏

こうして秀吉による九州平定が成り、元親も国許の岡豊へ帰っていった。 なお、帰国後の同年9月から、検地の実施など土佐国内の整備を進めていくことになる。


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