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元親の家督相続・結婚、および本山氏攻め(1560-63年)

国親の死と家督相続

永禄3年(1560)5月の長浜の戦いで長宗我部軍に敗れ、浦戸城に立て籠もっていた本山茂辰は、翌6月に脱出して朝倉城へ去っていった。

元親の初陣の活躍もあって、本山氏との戦いに勝利した長宗我部軍であったが、父の国親がこの頃に急病となって、兵を引き上げたようだ。
『元親記』による、国親の遺言は以下である。

  • 本山を滅ぼせなかったのは無念
  • 初陣での元親は立派であり、安心だ
  • 自分は長宗我部の軍神となろう

まもなくして長宗我部氏の再興に奔走した国親が死去、嫡男の元親が家督を継いだのである。

本山氏攻め

父の死後、当主となった元親は、本山氏への攻撃を引き続き、長浜と薊野の2方面から行なっていった。

以下、時系列で本山氏との戦いの経過などをたどってみよう。

--永禄3年--

  • 土佐郡国沢城の国沢将監、および土佐郡大高坂城(のちの高知城)の大高坂権頭を降す。
  • 土佐郡秦泉寺城を攻略、吉松茂景を降伏させる。
  • 土佐郡久万城を攻略、城主の久万俊宗は逃亡。
上記の攻略により、降伏した吉松茂景を万々城主とし、秦泉寺城主は中島大和にした。
また、久万城には筆頭家老の久武内蔵助(親信)に与えている。

--永禄4~5年(1561-62)--

  • 長宗我部一門だが、本山家の従属下にあった杓田城の大黒氏を味方につけ、周辺の土豪をも味方にする。
  • 大黒氏を率いて、本山茂辰の所領である朝倉圧比治(現在の高知市西部)以西の村々の麦薙を行なって打撃を与える。
  • 高森城を攻略。
  • 朝倉城の東部の前衛拠点であった神田城と石立城の城主が、城を捨てて朝倉城へ。
上記の攻略により、本山氏の高知周辺における拠点は朝倉城と吉良城の2つのみとなり、元親は奪取した神田城に細川宗桃を、石立城には吉田三郎左衛門と広田四郎兵衛に守備させることにしている。
なお、この頃までに元親は「宮内少輔」と称するようになっている。

朝倉城の攻略

そして、ついに永禄5年(1562)9月、元親は本山氏の要衝・朝倉城への攻撃を開始した。

このときの合戦はかなり激しい攻防が続いたが、おおむねの展開は以下。

  • 元親が3千余の兵を率いて、朝倉城への攻撃をはじめる。
  • 本山茂辰の子・本山貞茂の奮戦を前に、元親は神田城まで退却し、籠城する。
  • 本山貞茂が神田城まで追撃してくるが、苦戦の末にこれを撃退する。
  • 元親が神田城から出撃すると、本山勢も城から出てきて激しい野戦となる。
  • 野戦は12時間、30余にも及ぶ激突となった。

この激しい合戦で長宗我部方は511人、本山方は一族23人・郎従85人・軍勢235人が討死したという。 結果的にこの朝倉城攻略は失敗に終わり、元親は岡豊に撤退したのである。

しかし、永禄6年(1563)1月には、あっけなく朝倉城を攻略することになった。
本山茂辰は、長宗我部氏との戦いで朝倉城を死守することが容易でないと悟り、家臣の寝返りを警戒して同城を焼き捨て、本拠・本山に退去することで元親との和睦をねらったというのだ。(『土佐物語』)

本山氏の本拠への撤退により、吉良城の本山兵もともに引き揚げたため、元親はこれを難なく接収。そして、弟の親貞を同城に配備するとともに吉良氏の名跡を継がせ、吉良親貞と名乗らせた。

これにより、元親は仁淀川以東の土佐中部を掌握することになった。

一条氏 vs 本山氏

一方で、朝倉城の攻略と同じ時期に、一条氏が3千の軍兵を率いて本山氏の蓮池城を奪取したという。

一条氏は、長宗我部氏と本山氏の婚姻を仲介するなどしており、両氏と敵対関係になかったが、一条氏の当主が兼定となってからは 一条氏と本山氏の間柄は悪化していった。

そして、元は一条氏の支城であった蓮池城が、本山氏に陥落させられたという経緯があったため、一条氏は元親と連携をとりながら、これをを奪還したのである。

このように、本山氏の本拠撤退の背景には、長宗我部氏と一条氏の両氏を敵に回していたというのも見逃せないであろう。

元親の結婚

元親は、朝倉城の攻略と同じ年に結婚をしているが、妻の出自には2つの説がある。

通説は、美濃の斎藤利三の妹である。

『土佐物語』によると、元親は結婚に関し、家老から意見を聞くために呼び集め、美濃の斎藤氏の女を娶りたいと話した。 その時、重臣の中島大和が「遠国からの縁組より、阿波・讃岐・伊予三国の有力な城主から候補者を選んで縁組し、味方にした方がよい」と進言し、遠国の縁組を聞いたところ、元親は武勇の血筋を重んずる考えを述べた。
こうした元親の考えに家臣一同が賛成し、吉田左衛門佐が使者として美濃に赴き、結婚となったという。

もう一方の説は、石谷兵部大輔の娘である。

石谷氏は清和源氏の流れをくむ土岐氏の支流で、代々奉公衆として将軍家に仕えたといい、石谷兵部大輔は13代将軍足利義輝の側近として仕えていたらしい。
石谷氏の娘を娶った経緯についてはよくわからない。

現在では、この石谷氏の説のほうが有力になっている。


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