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四男盛親の継嗣問題と小田原出兵(1588-90年)

天正16年(1588)の春、前年に九州を平定した豊臣秀吉は、聚楽第に後陽成天皇を迎えて饗応し、配下の諸大名には忠誠を誓わせた。
いわゆる聚楽第行幸である。

このとき元親も当然ながら行列に参加し、起請文にて秀吉への忠誠を誓っている。また、これを機に秀吉から羽柴姓を与えられたようであり、公称は「羽柴土佐侍従」となった。

一方、土佐国内において、8月に元親は検地を再開(検地の開始は前年から)し、同年冬には居城を岡豊城から大高坂城(=高知城のこと)へ移したという。(『土佐物語』『土佐国編年紀事略』)

四男盛親の継嗣問題

上述のように、土佐国の領国支配の強化をすすめていた元親だが、このころに家中では大きな騒動があったようだ。

というのも、元親は九州攻めで討死した嫡男・信親に代わる家督後継者として四男の盛親を決定したからである。
通常の家督相続の優先順位でいえば、二男の香川親和が後継者となるべきであろうから、四男を選んだことで家中が混乱するのは必定であった。

『元親記』を元に、盛親の継嗣問題のおおむねの展開を以下に示そう。

  1. 元親の生死が不明だった「戸次川の戦い」の直後、二男親和は秀吉から「土佐国を与える」旨の朱印状をもらっていた。
  2. しかし、元親は親和にわずかな知行しか与えなかった。
  3. これを気に病んで、病没してしまう。
  4. その後、三男親忠については、幼少より津野家に養子入りしているとの理由で除外し、四男盛親を推す。
  5. このことで家中の重臣らがこれに反対する。
  6. 側近の久武親直が元親に対し、「吉良親実が重臣らを説得していた」と讒言する。
  7. 吉良親実は元親に切腹を命じられ、他の重臣は恐れて何も言わなくなり、四男盛親が後継者に決まる。

盛親が後継者となるまでに大きな騒動があったワケだが、久武親直の讒言の背景にはなにがあるのか?

かつて元親が秀吉に降り、まもなくして豊臣政権に材木の提供を要請されていた頃、久武親直と吉良親実の2人は材木伐採中にトラブルとなり、それ以降は犬猿の仲になったという。
つまり、親直は吉良親実を恨んでいたのだろう。

なお、『元親記』以外にも、以下のような説がある。

  • 元親が信親の娘を盛親に娶らせようとしたところ、吉良親実と比江山掃部助がこれに反対し、元親の怒りをかった2人が死罪となったという。(『土佐国と簡集』)
  • 上記と似ているが、元親の怒りをかった2人が切腹させられようとしたところ、三家老(久武親直はその一人)の仲裁で一旦は死罪をまぬがれる。その後、盛親派の家臣たちによる讒言で2人も死罪が確定。しかも吉良親実の親族も殺害されたという。(『土佐軍記』)
  • 久武親直が、吉良親実と親しい二男親和・三男親忠が当主になる事を嫌い、元親に讒言を繰り返したという。(『土佐物語』)

ちなみに、この後継者決定の件で吉良親実が切腹したのは同年10月とされているが、実際には天正18年(1590)の検地で親実の名があることから、次に述べる小田原征伐が終わって元親が帰国してからのことと考えられている。

秀吉の小田原征伐に参加

天正17年(1589)の8月、秀吉が諸大名に妻子の在京を命じており、元親も聚楽第近くに屋敷をもったようだ。
このとき、関東の北条氏は秀吉に降伏を表明していたが、北条氏政がいまだ秀吉の上洛要請に応じず、さらに同年11月には惣無事令(私闘禁止令)に違反して真田氏が有する名胡桃城を攻撃し、秀吉の怒りを買った。

こうして、秀吉は北条攻め(小田原征伐)を決定し、豊臣大名がほぼ総動員で出陣することになったのである。

天正18年(1590)2月、ついに小田原征伐が開始。この戦いで長宗我部勢は水軍として2500の軍勢を率いたようであり、脇坂安治・九鬼嘉隆・加藤嘉明ら淡路国や伊勢国の大名とともに参加したのがわかる。(『毛利家文書』『久留島家文書』ほか)

『脇坂記』によれば、元親ら水軍は4月頃より清水正令の守る伊豆国の下田城を攻めたが、途中秀吉の命で脇坂・九鬼・加藤らは小田原攻めに向かい、元親ら長宗我部隊は下田に抑えとして残ったといい、小田原城を攻めたかとうかはよくわからない。
また、『元親記』では、長宗我部勢は「大黒丸」と名付けられた大船で池六右衛門が水軍の大将を務めており、加藤嘉明らとともに佐川口を担当し、小田原城の南側から攻め込んで戦功をたてたという。

そして、秀吉は7月にはついに北条氏を降伏させると、その後は奥羽仕置のために宇都宮・会津へ赴いている。
その間、一方の元親は、富士山の麓で大仏建立のための用材を伐採し、運搬の道路について秀吉に報告などをしたようだ。

ここに秀吉の天下統一事業は達成され、やがて秀吉は京都に凱旋したが、元親もそれと前後して帰国したとみられている。


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