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一条兼定と断交する元親。兼定は追放へ(1569-74年)

一条氏と長宗我部氏が手切れ

さて、永禄12年(1569)に安芸氏を滅ぼした元親であったが、同年11月には一条氏の一条方の高岡郡蓮池城を攻め、これを陥落させた。
一条氏には恩があった長宗我部氏だが、これにより断交したとみられる。

ところで、断交の理由や戦いの過程などはどうだったのだろうか?

以下、各史料によってそれぞれ内容が違うので、真相は定かでない。

  • 『長元記』:一条氏と安芸氏は縁戚関係にあったが、長宗我部氏が安芸氏を滅ぼした事で関係が悪化し、戦いに発展した。
  • 『元親記』:元親の弟・吉良親貞が蓮池城の奪取を主張したが、元親は一条氏には恩があるとして、これを受け入れなかった。しかし、親貞は独断で蓮池城の在番衆を調略で味方にし、攻めとってしまった。
  • 『土佐軍記』:津野定勝が蓮池城に籠城して、一条兼定に救援を求めた。
  • 『南国中古物語』:津野定勝の援助要請に対し、一条兼定の老臣らは議論したが、兼定によって援助が決まり、津野氏3千余騎が戸波丸山城に籠城していたところに、一条氏の援軍が加わって蓮池城に龍城した。

戦後、『元親記』によれば、一条兼定が驚いて抗議をし、元親は「弟の親貞がしたことであり、ただいまより兄弟の縁を切る」などと謝罪したが、両者の関係は修復しなかったという。

以後、元親は土佐高岡郡・幡多郡を中心に軍事行動を展開していくが、高岡郡には有力な国衆の津野氏がいた。
津野氏は、一条氏の従属下にあったようであり、先の蓮池城奪取においても、その名がみえる。

元親は元亀2年(1571)に津野氏を降伏させているが、これも諸史料で内容に差異がみられる。

  • 『長元記』:元親に勝てないと思った津野氏は、元親三男の孫次郎(のちの親忠)を養子として迎え、隠居・降伏した。
  • 『元親記』『土佐物語』:津野氏は長宗我部氏と姻戚関係にあったため、すぐに降った。
  • 『津野氏家系考証』:津野家臣らが、長宗我部に降参・従属の道をすすめるが、津野定勝はこれを受け入れないため、家臣らは定勝を伊予に追い出し、子の勝興を擁立して元親に降った。

いずれにしても、津野氏は降伏して長宗我部氏の従属下におかれ、当主は定勝から勝興へと代わったとみられている。

元親は、以下のように引き続き高岡郡の諸城攻略をすすめ、同年中に高岡郡の大半を制圧したとみられる。

  • 佐川郷の中村氏、黒岩郷の片岡氏、尾川郷の近沢氏などを降す
  • 久礼城主・佐竹信濃守と内通し、同城を攻略
  • 仁井田・窪川方面の仁井田5人衆(窪川氏・志和氏・西氏・西原氏・福良氏)を降す

この時点で長宗我部氏の支配領域は、一条氏の本拠・幡多郡と接するようになったが、元親は同年冬ごろに一旦岡豊へ帰った。

一条兼定の追放

さて、まだ高岡郡や安芸郡の一部、および一条氏の本拠・幡多郡の制圧が残されている元親であったが、元亀3年(1572)と翌元亀4年(1573)においては軍事行動をおこした形跡があまりみられない。

一方、同3年に吸江庵と竹林寺が再び山境を争ったのに対し、元親が吸江庵に裁決の書状を送って争論を決着させている。(『吸江寺文書』)

どうやら、この文書でいう "裁決" は細川氏のものではなく、長宗我部氏のものとして行なっている点がポイントらしい。というのも、南北朝時代より細川氏に仕えた長宗我部氏は、吸江庵の寺奉行を任されていた。
つまり、"裁決" を元親のものとして行なう事は、細川氏から完全に自立したと考えられるのである。

それも当然のはずである。この頃の中央政権を掌握していたのは細川京兆家ではなく、織田信長であったからだ。

信長は将軍権力を抑制して実権を握り、15代将軍義昭が結集した反織田勢力と戦っていた頃にあたる。
細川政権はどうなったかというと、元親の父・長宗我部国親の代に、三好長慶の台頭によって細川晴元政権は崩壊した。元親の代には、さらにその三好政権も信長の台頭によって崩壊したのである。
つまり、元親の代は三好政権~織田政権であるから、細川氏との主従関係はなくなっていたということになろう。

ここでまず、一条兼定について、各史料で人物評をみてみよう。

  • 『元親記』:「形義荒き人にて、家中の侍共、少しの科にも扶持を放し、腹をきらせなどせらる」
  • 『土佐物語』:「生質軽薄にして常に放蕩を好み、人の嘲りを顧みず、日夜只酒宴遊興に耽り、男色女色し諂いをなし、叉は山河に漁猟を事とし、軽業力業異相を専ら」
  • 『海南志』:「軍国の大事はすてて問はず」「将を御するの道は督責を加ふるに在りとて刑罰を苛酷にし」

上記をみると、かなりたたかれている感があるが、兼定がのちに追放されたことを考えると、しかたないのかもしれない。

『元親記』などによると、追放のきっかけは、たびたび諌言をした老臣の土居宗珊を手討ちにしたことだという。
これにより、家臣らが合議をした結果、兼定を隠居させて追放し、代わりに子の内政を擁立して長宗我部元親に後見を依頼することにし、元親もこれを承諾したという。

実際、天正元年(1573)9月には兼定が出家しており、同年中に子の内政が元服、さらに翌天正2年〈1574)2月に兼定は妻の実家である豊後の大友氏のもとに送られている。

この追放劇後の一条氏は、内政が元親の娘を娶って元親に後見してもらう新体制となったが、家中では大混乱が起こった。

家老の安並因幡守や為松氏と、幡多郡の国衆らとの間で対立がおき、同年中に安並因幡守・為松氏らは戦死した。
なお、元親はこの混乱に乗じ、このまま一条氏の本拠・幡多郡中村城に内政を置いておくのは危険だとして、彼を長岡郡大津城に移し、空いた中村城には弟・吉良親貞を入城させている。


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