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土佐統一「四万十川(渡川)の戦い」(1574-75年)

安芸郡の完全制圧

一条氏家臣らと共謀して一条兼定を追放した元親だが、安芸郡東部の経略が残っていた。

天正2年〈1574)の秋には、安芸郡の羽根・吉良川・崎浜・野根・甲浦の城主が共同で羽根まで軍勢を進めてきたようだ。
これに対する元親は、翌天正3年〈1575)3月に崎浜へ出陣して屈服させている。ただ、野根と甲浦に関しては、阿波国から援軍がくる恐れがあったことでひとまずは攻略を見送って岡豊に帰ったとされる。
野根・甲浦の攻略は同年7月であり、野根城は元親家臣・桑名丹後守に調略させて奪取し、ついで甲浦城を攻めとったという。

ここに安芸郡の完全制圧が成った。

追放後の一条兼定

ところで妻の実家・豊後の大友宗麟のもとへ追放された一条兼定はどうなったのだろうか?

彼は豊後に入ったのち、キリスト教に入信したという。
以下はイエズス会の兼定に関する記録である。

  • 数カ月もの間、熱心に説教を聞いた上で洗礼を願った。
  • 洗礼を受けて「ドン・パウロ」を名乗った
  • "全国をキリシタンとするよう努める" 旨の決意を述べた
  • 自分の船が掲げる仏教の旗を、十字架の旗に替えた

こうした活動をする一方、兼定は一条家当主への復帰も企てていた。そして、大友氏を後ろ盾に軍事行動を引き起こすのだ。

まさに元親が安芸郡を完全制圧した直後、同年7月下旬のことである。

四万十川の戦い

ついに軍勢を率いて九州から四国へ渡海した兼定だが、伊予国へ入ると瞬く間に多くの味方を手に入れた。

一条方には御荘越前守などの南伊予の勢力、大友宗麟の援軍、さらに兼定を当主に戻そうとする旧家臣らも加わったというのだ。

兼定の元々の本拠である土佐国幡多郡の中村城は、すでに元親の弟・吉良親貞が守備していたが、この中村城と城下町を除き、幡多郡は一条方に味方したともいう。
なお、8月29日には中村城の周辺で吉良親貞の軍勢と一条勢が小競り合いをしている。また、その一方でキリシタンとなった兼定に反発する寺の坊主らが長宗我部方に味方するという珍現象もあったらしい。

9月中旬に一条方が四万十川の西の栗本城を拠点に陣を敷くと、まもなくして元親らが四万十川の東に着陣。
こうして四万十川の戦いがはじまる。

合戦の経過はおおむね以下であった。

  • 一条方が川に杭を打って迎撃体制を整えていた。
  • 長宗我部方は吉良親貞らが、杭のない川上に迂回して攻め込む。(一説には川下からも同時攻撃)
  • 一条方は虚をつかれ、栗本城へ敗走して籠城する。
  • 長宗我部方はそのまま攻撃、3日後には栗本城を陥落させる。

これによって幡多郡も完全制圧となり、元親は名実共に土佐統一を成し遂げたのである。

なお、この戦いに勝利した元親は、幡多郡の要所に一門衆や譜代家臣を置くなど、旧一条氏の領国支配を盤石なものとしていった。
一方の一条兼定は、伊予国の宇和郡戸島へ逃れ、旧領回復をあきらめずに滞在生活を送っていたようだが、その願いを叶えられないまま、天正13年(1585)に戸島で没したという。


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