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長宗我部国親

滅亡寸前の長宗我部氏を再興させ、”野の虎”と評された長宗我部国親。元親の父でもあり、土佐国の統一は嫡男元親に譲ることとなった。

誕生~岡豊城の落城

国親は長宗我部兼序の嫡男として誕生した。幼名は千雄丸。
生誕は従来、文亀2年(1502)頃とされてきたが、近年の研究では永正12年(1515)が明らかだという。

この文亀2年頃の長宗我部氏は、土佐国の地頭として発展を遂げており、父・兼序は、細川政元政権の後ろ盾もあって権勢をふるっていた。しかし、永正4年(1507)には、その政元が暗殺される事件が勃発したことで、長宗我部氏は強力なバックを失い、窮地に立たされることになる。

というのも、父の兼序は武勇に勝れていたが、「国侍を蔑にあつかう(『土佐軍記』)」と伝わるように、驕り高ぶっていたために周囲の反発を招いた。そして、土佐の有力豪族である本山氏・大平氏・吉良氏らが結託し、共同で居城の岡豊城へ攻め込まれて落城・自害という憂き目にあうのである。

ちなみに『長元物語』にみる土佐の有力豪族は以下の8氏をさす。

  • 一条氏:1万6千貫
  • 津野氏:5千貫
  • 吉良氏:5千貫
  • 本山氏:5千貫
  • 安喜氏:5千貫
  • 大比良(大平)氏:4千貫
  • 香宗我部氏:4千貫
  • 長宗我部氏:3千貫

岡豊城の落城は国親6歳のときと伝わるから、近年の国親生誕説に従えば大永元年(1521)ということになろう。

『長元記』によれば、国親は落城時に、家臣に伴われて幡多郡へ向かい、細川氏を通じて深い関係にあった一条氏を頼ったという。 その後、一条氏に「2階から庭に飛び降りれたら長宗我部の再興を約束する」旨を言われた国親は、言い終わる前に飛び出し、一条氏を涙させたという。

本領帰還を果たし、再興へ

一条氏の庇護を受けた国親は、やがて一条房家の仲介によって、長宗我部本領の本領江村・廿枝郷を還付され、岡豊城に戻ることができた。帰還後、国親は元服して管領・細川高国から一字を拝領して”国親”と名乗り、本山氏の娘を娶ったとされる。
以後、国親は家臣の吉田孝頼と相談して長宗我部氏の再興を練り、着々と軍事力強化や所領回復を進めていった。

天文5年(1536)には長岡郡野田において合戦があったらしく、功のあった権助という者を武士に取り立てて、”昇田新右衛門”という名を与えている。

こうした中、国親の娘が本山茂辰に嫁いでいる。これは長宗我部氏の再興過程で再び周辺の諸豪族が警戒しはじめ、これを心配した一条氏が仲介して成った縁談だという(『土佐物語』)。

しばらくは国親に関する史料がないが、おそらく再興のために内政や軍備の充実に努めていたと思われる。なお、天文8年(1539)には嫡男の弥三郎、すなわち、のちの四国の覇者となる長宗我部元親が誕生している。

天文16年(1547)に再び国親が史料に現れる。

同年4月には長岡郡江村郷・廿枝郷のほか、香美郡岩村郷を家臣に与えていることから、東へ勢力を伸ばしたことがうかがえる。また、翌5月には長岡郡大津城の城主天竺氏を滅ぼすと、大津の南にある介良の横山氏を屈服させ、勇猛で名高い下田駿河守も討つなどしている。

以後の国親は、天文の末年(1555)頃までに破竹の勢いで勢力拡大をしていくのだ。

  • 十市の細川宗桃を降伏させる。
  • 細川宗桃の次男・池頼定を攻め、最終的に国親の娘を嫁に送りこむことで和睦する。
  • 布師田の石谷民部少輔を降伏させる。
  • 一宮の永吉飛騨守を降伏させる。

このようにして国親は、長岡郡南部、および土佐郡南西部を制圧するまでに至ったのである。なお、この間の天文18年(1549)には、父・兼序を滅ぼした宿敵の1人である山田氏を討っている。

ところで、天竺氏・十市細川氏・池氏はいずれも細川氏の一門であるが、細川に仕えていた長宗我部氏がなぜ攻めたのだろうか?
これは一つの見解があるが、そのためには中央政権、すなわち京周辺(幾内)の情勢を説明しないといけない。

この頃、中央では細川高国が滅び、管領の細川晴元が政権を掌握していたが、この政権も細川氏の内訌により、高国の後継者の細川氏綱が政権奪回に向けて晴元と戦っていたのである。

つまり、細川氏のニ派による権力闘争が土佐国にも及んでおり、国親が晴元派、土佐の細川一門が氏綱派に属したことで起きた戦いではないか、との見方があるのだ。

晩年、本山氏との再戦へ

天文23年(1554)には長岡郡下田村の三所権現を再興。このころより国親は出家して「覚世」と名乗っているが、隠退したわけではなく、そのまま当主として政務を行なっている。

天文24年(1555年)になると、本山茂宗が死去。娘婿の茂辰が本山氏の後継者となったのをきっかけに、やがて長宗我部氏と本山氏の間に戦端が開かれることになる。

弘治2年(1556年)には、国親が本山氏家臣の秦泉寺氏に攻撃を加え、これを支援した大高坂氏や国沢氏を討っている。一方において国親は、安芸郡の安芸氏との戦いで没落過程にあった香宗我部氏に対し、三男・親泰を養子として送り込んで従属化に成功している。

そして永禄3年(1560年)、ついに国親は本山氏と手を切る。
事の発端は、国親が大津から種崎へ兵糧を運ぼうとしたところ、本山茂辰の家臣が潮江より船を出して、この兵糧船を略奪したことだという(『土佐物語』『元親記』)。

これに乗じて国親は、本山氏の支城・長浜城を計略で攻略しようとした。
実は長浜城に、国親に追放された元家臣・かつ大工でもあった福富右馬丞が、このときは本山氏に仕えていたのである。国親は右馬丞を調略によって寝返らせ、同年5月に夜討ちにより、いとも簡単に長浜城を奪取したという。
その後、これに驚いた本山茂辰が朝倉城から出陣してきたため、長浜で両軍が戦うことになった。

この戦いを長浜の戦いといい、長宗我部元親が初陣を飾って活躍したことで知られてる。

長宗我部方は数で劣るものの、本山の軍勢を押し返して浦戸城へ退却させて勝利しているが、その後、朝倉城へ逃れた本山氏との攻防の最中、国親が急病を発したことで長宗我部軍は兵を引き上げたようだ。

まもなく国親は、本山氏を滅ぼせなかったことを悔やみ、この世を去ったのであった。


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