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【超入門】5分でわかる長宗我部元親

「四国の覇者」として知られる長宗我部元親。
幼き頃は軟弱ゆえに周囲から嘲笑されていたが、初陣でそれを覆す功をあげると、まもなく父の後を継いで土佐国を統一、さらには四国制覇という偉業まで成し遂げた。

本稿では元親のそうした仰天の生涯を追ってみる。

誕生~家督相続(1539-60年)

はじめに、元親誕生前の長宗我部氏のことについて少し触れておこう。

没落した長宗我部氏

長宗我部氏はかつて「土佐七雄」の一角に入る有力豪族だったが、父・長宗我部国親が幼少の頃、本山氏・大平氏・吉良氏らの攻撃を受け、岡豊城は陥落。幼少の国親は家臣に連れられて命からがら一条氏のもとへ逃れ、庇護を受けるハメとなっていた。

まさに長宗我部は滅亡寸前といったところだったが、一条氏は土佐国において別格の国衆であったことから、その仲裁によって国親は無事に岡豊城へ戻ることができたのであった。

参考までに『長元物語』にみえる土佐の有力豪族とその所領は以下。

  • 一条氏:1万6千貫
  • 津野氏:5千貫
  • 吉良氏:5千貫
  • 本山氏:5千貫
  • 安喜氏:5千貫
  • 大平氏:4千貫
  • 香宗我部氏:4千貫
  • 長宗我部氏:3千貫

こうして岡豊に戻った国親だが、彼はすぐに頭角をあらわし、急速に旧領回復と軍備増強を進めていった。

元親誕生と初陣

そのような中、天文8年(1539年)に国親嫡男の元親が岡豊で誕生した。幼名は弥三郎。

幼少の元親に関してはよくわかっていないが、初陣するまでの元親の評判はあまりよくなかったようだ。

幼少の頃は軟弱な性格・色白の容姿から「姫若子」と揶揄されていたが、永禄3年(1560)の「長浜の戦い」での初陣により、一気に下馬評を覆している。

元親はこの初陣にあたり、鑓の突き方も知らなかったため、家臣の秦泉寺豊後に聞いて「敵の眼を突け」と教わったといい、いざ合戦が開始すると、50騎ほどで敵中突撃をして2人を討ち取る功をあげたというのだ。


この初陣後、まもなくして父・国親が病死したため、家中での名声を一気に高めた元親が家督を継いだ。

土佐統一まで

家督を継いだ元親は土佐の諸豪族を次々と攻め、勢力を拡大していった。

しかし、元親の土佐国統一事業は、本山氏との戦い(1560-68年)、安芸氏との戦い(1569年)、一条氏との戦い(1569-75年)というように、実に15年間もの長い期間を費やすことになった。

本山氏との戦い

土佐統一戦の最初の相手は本山氏だが、元親はこれを服属させるまでに実に8年も要している。

  • 永禄3年(1560):国沢城・大高坂城・秦泉寺城、久万城などを攻略。
  • 永禄4~5年(1561-62):高森城、神田城、石立城などを攻略。
  • 永禄6年(1563):朝倉城・吉良城を攻略。なお、吉良城には元親の弟・親貞が配備され、吉良氏の名跡を継いで以後は”吉良親貞”と称すようになる。
  • 永禄7年(1564):本山茂辰が病死。同年、本山氏は本拠・本山城を捨てて瓜生野城へ籠城。
  • 永禄11年(1568):本山氏を降伏させる。

以上、長宗我部と本山氏との戦いの経過を簡単に記したが、元親はこの間(朝倉城攻略と同じころか?)に結婚もしたとみられている。
相手は美濃国の斎藤利三の妹とも、石谷兵部大輔の娘ともいわれているが、この妻の出自がのちの織田政権との交渉に大きな役割を果たすことになる。


ちなみに永禄7年(1564)から永禄11年(1568)まで本山氏を降すまでに間が空いているが、これは以下の理由などがあげられる。

  • 一条氏への軍事支援
  • 安芸氏へ備えるための軍備強化
  • 土佐神社の再興

安芸氏を滅ぼす

永禄12年(1569)には一時和睦していた安芸氏との戦いが再開。

元親は安芸国虎の安芸城を攻めて、国虎を自害に追い込んで安芸氏を滅ぼすと、残る支城も次々と攻略していった。
戦後、安芸城には弟の香宗我部親泰を配置している。

なお、香宗我部氏はこのとき既に安芸氏との戦いで没落、親泰が養子入りして当主となっており、長宗我部氏の統制下に置かれていた。


一条氏と断交、やがて兼定は追放へ

続いて同年11月、長宗我部方が一条氏の高岡郡蓮池城を攻め落としたことで、両者の友好関係は消滅した。

ところで、元親はなぜ恩のある一条氏を攻撃したのだろうか?

『元親記』によれば、元親の弟・吉良親貞が蓮池城奪取を主張したが、一条氏に恩義を感じている元親はこれを受け入れなかった。
しかし、親貞は独断で蓮池城を調略によって奪取してしまった。すぐに一条兼定が抗議し、これに元親も「弟のしたこととして、兄弟の縁を切るつもり」といった旨を伝えて謝罪したが、結局関係が修復することはなかったという。

以後、両者は敵対関係となり、元親は元亀2年(1571)に一条氏の従属下にあった津野氏を降伏させている。なお、このあと元親が三男親忠を養子に送り込み、津野氏の当主としている。

こうした中、一条家中では当主・兼定が悪評を買ったことで、クーデターが勃発した。

天正元年(1573)には兼定が出家させられて、子・内政が元服すると、翌天正2年〈1574)2月には兼定が妻の実家である豊後国・大友氏のもとへ送られることになったのだ。

このとき、一条家臣らは合議によって兼定追放計画を立て、代わりに兼定の子・内政を擁立して元親に後見を依頼したといい、 土佐統一を進めていた元親にとっては願ってもないことであった。
この結果、元親は後見人として内政に元親の娘を娶らせ、土佐一条氏を事実上掌握する形となった。

このクーデター後、一条家中では兼定派と内政派の対立によって大混乱となるが、元親はこの混乱に乗じて一条氏の本拠・中村城には弟・吉良親貞を入城させ、一条内政を長岡郡大津城に移している。


四万十川の戦い

この時点で元親は土佐をほぼ制圧するに至っていたが、翌天正3年〈1575)には九州に追放されていた一条兼定が復権をめざして四国へ上陸、これを待っていた一条家臣ら等が一気に兼定に味方し、伊予や土佐にその勢力があっという間にできあがったという。

こうして四万十川の戦いと呼ばれる決戦が行なわれたが、これに元親は勝利し、名実ともに土佐国を統一することになったのである。なお、元親に敗れた兼定は伊予国へ逃れ、再起をはかったものの、そのまま伊予で没したとされる。


四国進出と織田政権

土佐の国主となった元親だが、休む間もなく四国進出に動きだした。
実は元親の四国制覇の戦いは、中央政権の情勢と深く関わりながら進められていく。

同年10月頃に元親は、織田信長に対して四国進出のことを伝えたという。これは元親の妻の実家(斎藤利三 or 石谷氏)が、明智光秀の家臣であったことから、光秀を介してのことであった。

ところで、元親はなぜ信長にわざわざ四国進出の旨を伝えたのか?

信長は既に中央政権を樹立し、他国を脅かす強大な存在となっていた。その勢力は拠点・美濃の岐阜城から西へ伸び、幾内を飲み込んで中国・四国へも迫るほどになっていたのだ。

つまり、島国の元親としても、幾内周辺をも支配した信長の存在を無視できず、誼を通じようとしたのである。

こうして同年の秋頃、元親は四国進出の端緒として三好氏の支配する阿波国の海部城を奪取し、ここに弟の香宗我部親泰を守備させて阿波南部の軍代としたのである。


毛利・織田・長宗我部三者の関係は?

天正4~5年(1576-77)には、阿波国の要所・白地を攻略し、さらに伊予国への侵略も弟・吉良親貞を中心に展開していった。

一方で中央においては、かつて信長に京を追われた15代将軍足利義昭が毛利輝元を頼って、反織田勢力を結成。「織田政権 vs 毛利氏を主軸とした反織田勢力」の戦いが開始されていた。

伊予国は、河野氏・宇都宮氏・西園寺氏などが領有しており、河野氏と毛利氏とは同盟関係にあった。

中央の情勢でみれば、織田派の長宗我部氏は反織田派の毛利氏と敵対関係になるが、実際この頃の長宗我部と毛利氏は密かに良好な関係にあったようだ。


3国同時経略

天正6年(1578)からは讃岐国へも進出し、元親は阿波・伊予・讃岐の3国同時経略を行なっていった。なお、同年には元親が信長に嫡男・弥三郎(のちの信親)の烏帽子親になってもらうように依頼したといい、信長から一字を拝領して"信親"と名乗らせている。

天正7年(1579)になると、元親は西讃岐の香川氏と同盟を結び、元親二男・親和を婿養子に入れて香川信景の娘を娶わせたことで、香川氏を従属下に置くことに成功した。 一方の阿波国では、長宗我部勢が阿波岩倉城を奪取して大勝を収め、さらに三好氏が家中の混乱によって居城・勝瑞城をも退去したため、一時的に占拠することになった。

このように西讃岐を掌握、さらに阿波国もほぼ制圧するなど、元親の四国制覇の戦いは順調に進んでいたのである。


信長が心変わり!?

しかし、翌天正8年(1580)には状況が一転する。

本願寺の残党勢力や雑賀衆、淡路国の勢力が四国へ乱入し、三好氏の本拠・勝瑞城を長宗我部方から奪い返したのだ。
これにより、讃岐国の国衆が動揺して長宗我部氏から離れる者もあらわれたという。

本願寺の残党勢力らがなぜ三好氏に加担したのかは定かでないが、一説には信長が裏で糸を引いたと言われている。そして元親に「四国は元親の手柄次第だ」とも伝えていた信長。
ついに元親との約束を反故にして三好康長に阿波・讃岐の攻略を命じるのであった。

なお、翌天正9年(1581)3月には、元親配下の三好康俊が、同族の三好康長に説得させて織田方に寝返っている。

このように信長が心変わりしたのは、一説に何者かが「元親はいずれ天下統一の妨げになり、阿波・讃岐を支配したなら、淡路国にも手を出す」といった旨の讒言を信長にしたという。
そして、これに乗せられた信長は「土佐と阿波の南半国の支配のみを認める」旨を元親に言ったという。

--「四国は自分の手柄で切り取ったのであり、信長からの恩義ではない。思ってもないことで驚いている。」

これは元親が信長に返した言葉といい、四国統一に近づいていた元親にとって到底受け入れられない話だったのである。

信長横死!絶対絶命の窮地を逃れる

そして天正10年(1582)、信長は3月に甲斐の武田勝頼をも滅ぼし、5月には四国攻めが決定され、先鋒隊の三好康長が阿波国勝瑞城に入り、長宗我部方の諸城への攻撃が開始された。

元親は信長を敵に回し、もはや四国制覇どころではなくなっていたのだ。

信長の圧力に耐えられなくなった元親は、5月21日に一転して「讃岐と阿波を信長に明け渡す」などと態度を軟化させている。

6月3日には信長三男・織田信孝を大将とする本隊が出陣予定だったが、四国へ攻め寄せてくることはなかった。
その前日の6月2日、本能寺の変によって信長が亡くなっていたのである。


四国制覇は幻か?秀吉に降る

信長死後、謀反人の光秀はまもなくして羽柴秀吉に討たれ、やがて織田家中は羽柴秀吉陣営と柴田勝家陣営に分かれて対立するようになる。

一方で難を逃れた元親は、しばらく兵を休めた後に再び軍事行動を起こし、勝瑞城を陥落させて阿波国をほぼ制圧した。

このとき、秀吉は勝瑞城の救援に援軍を送りこんでおり、四国に対する考え方が信長と同じであることが浮き彫りとなった。
つまり、この時点で元親と秀吉は明確に敵対関係となったのである。


柴田勝家に味方し、秀吉に抵抗

天正11年(1583)には秀吉と勝家の決戦・ "賤ヶ岳の戦い" が行なわれるが、それに先立って勝家陣営から元親に軍事面で協力するよう要請が届いている。
秀吉と敵対する元親は当然、勝家に協力することになり、秀吉を牽制するために軍を動かした。

同年2月から三好の支城である讃岐国の石田城を攻めるなどし、4月21日には秀吉が派遣した仙石秀久の軍勢と讃岐大川郡引田で激突し、翌22日には仙石勢を敗走させている。また、同じ頃に阿波国でも弟の親泰に木津城を攻略させるなどした。

しかし、一方で同日に秀吉と勝家の戦いの決着がついており、勝家は本拠の越前国北ノ庄城へ敗走し、2日後には自害して果てたのであった。
こうして織田家の実権を完全に掌握した秀吉は、以後、仙石秀久らにたびたび長宗我部領を攻め込ませていった。

一方、この年はまだ長宗我部と毛利氏の友好関係が続いていたが、伊予国をめぐる長宗我部と河野氏の戦いに関しては、毛利氏は元親に和睦を求めていた。

同年末には、秀吉の圧力に屈した元親が「阿波・讃岐2か国を手放す代わりに伊予国を与えてほしい」と秀吉に懇願しているが、秀吉は「伊予は毛利輝元に渡す」と言って拒否したという。


徳川家康に味方し、秀吉に抵抗

秀吉に突き放された元親は、秀吉に従う毛利氏もいつ敵対するのかと恐れていたが、再びこの窮地を脱する機会が訪れる。
それは信長二男・織田信雄の存在であった。

信雄は織田の後継者を望んでいたが、秀吉が織田家中を掌握していることに不満を抱いており、一方の秀吉も信雄は邪魔な存在だったのである。

天正12年(1584)3月、秀吉が信雄の重臣・三家老を味方にしようと働きかけたが、信雄は内通の疑いで三家老を殺害する事件が起きた。これがきっかけで秀吉は信雄討伐を決意。信雄もまた、かつて父・信長の盟友であった徳川家康に接近して味方につけたことで "小牧・長久手の戦い" が勃発することになった。

さっそく元親のもとにも信雄から連絡が入り、秀吉を背後から牽制することや、毛利輝元を味方にするなどの要請を受けている。 また、雑賀衆・根来衆も信雄・家康に味方することになり、元親にとっても秀吉の脅威を排除する絶好の機会となったのだ。

この戦役において、元親は四国以外にも淡路・摂津・播磨への出兵を要請されたが、そこまでの余力はなく、四国統一戦を進めていった。6月には讃岐の十河城を陥落させ、その後に虎丸城を包囲して讃岐国をほぼ制圧した。

残る伊予国では毛利氏が和睦仲介に絡んでいたが、同年8~9月頃にはついに長宗我部と毛利の関係は破綻。以後、元親は伊予への攻勢を強めていった。

だが、小牧・長久手の戦いの結末は、信雄が秀吉に攻め込まれて単独で降伏したことで、家康も秀吉討伐の大義名分を失い、終了してしまった。前年の賤ヶ岳の戦いのときと同様、元親は再び秀吉の敵対勢力に加担したものの、秀吉を討ち倒すことはできなかったのである。

四国征伐

天正13年(1585)に入り、秀吉は信雄に味方した根来衆・雑賀衆、および長宗我部氏の討伐を計画した。

元親は秀吉と粘り強く交渉し、土佐・伊予2か国の安堵と引き換えに嫡男・信親らを人質に差し出すなどの条件を提示し、一旦は秀吉も手を打とうとしたようだ。しかし、伊予国は毛利氏が求めていたたため、結局は和睦交渉はまとまらず、秀吉の四国攻めが行なわれることになった。

なお、通説では同年の春頃、元親の四国統一が達成されたといわれるが、これは現在では否定的だ。
というのも、阿波の土佐泊城や讃岐の虎丸城を陥落させたという記録がなく、また、伊予の河野氏も降伏していないとみられているからだ。

それに秀吉が四国攻めの準備をすすめ、元親も必死に和睦交渉をしている時期であった点からも、四国統一の戦いを進めていたというのは疑わしいだろう。


話を元に戻すが、元親は和睦交渉と並行して同年5月には防御体制を整えていた。一方の秀吉は弟・羽柴秀長を総指揮官として伊予・讃岐・阿波の三方面からの攻撃を計画しており、6月下旬以降、順次軍勢を派遣してきた。

秀吉はこの戦いにおいて無理に力攻めにせずに水攻めなどを行なっており、最初から長期戦を考えていたようだ。

多勢に無勢であり、長宗我部勢は徐々に支城を攻め取られていき、7月にはついに降伏。元親の四国制圧は当主となってから実に25年もかかったが、それが秀吉の手により、たった1カ月で崩れ落ちたのであった。

翌8月には四国の所領配分(四国国分)が行なわれ、秀吉に降伏した長宗我部の所領は土佐一国のみとなり、阿波国は蜂須賀家政、伊予国は小早川隆景、讃岐国は仙石秀久の知行地とされた。


豊臣政権下での元親の役

その後、元親は秀吉に臣下の礼をとるため、10月に上洛して秀吉に謁見し、翌天正14年(1586)正月にも年賀の挨拶に秀吉のもとを訪れている。

以後、長宗我部氏は豊臣大名として秀吉の命令に従うことになるが、土佐国が木材の産地であったことにより、豊臣政権から主に建築用途での材木集めを命じられている。

嫡男・信親の死と四男盛親の継嗣問題

一方、はじめての軍役は同年の秋頃から行なわれた九州征伐である。

先鋒に元親や仙石秀久ら四国勢と、毛利氏などの中国勢が命じられたが、豊後国で12月に起きた戸次川の戦いでは、四国勢の作戦失敗によって大敗し、元親嫡男の信親や十河在保など多くの将が討死している。
このとき、元親は信親の後を追って自害しようとしたが、家臣に止められて退却したという。

天正15年(1587)には秀吉自らも出陣し、島津氏を降伏させた。
秀吉は元親に気をつかったのか、信親討死の功として元親に大隅国を与えるとしたが、元親はこれを辞退したという。


こうして豊臣政権による九州平定が達成されると、元親は土佐へ戻り、まもなくして検地を開始するなど国内整備を急いでいった。

だが、九州征伐における信親の死で発生した跡継ぎ問題では、元親が二男や三男を差し置いて、四男盛親を後継者に推したことで大きな騒動に発展。天正16年(1588)には重臣らが元親に反対したが、元親は強引に盛親を後継者として定めており、この一件でのちに長宗我部一族の吉良親実らが粛清されるという事件も起きている。

小田原征伐・朝鮮の役に従軍

天正18年(1590)、豊臣政権による小田原征伐では、長宗我部水軍を率いて参戦し、はじめに下田城を攻め、のちに北条氏の本拠・小田原城包囲にも参加したとされている。


天正19年(1591)の末頃には居城を大高坂から浦戸城へ移したとされ、翌文禄元-2年(1592-93年)の文禄の役では、元親は盛親とともに朝鮮に渡海している。

慶長元年(1596)にはサン=フェリペ号事件に対処し、秀吉によるキリスト教迫害の引き金を作った。領内では検地を行い、慶長2年(1597)には盛親と共に分国法である『長宗我部元親百箇条』を制定している。

慶長3年(1598)、秀吉が死去すると豊臣家中では徳川家康が台頭し、これに前田利家や石田三成らは反発し、政情が不安定になっていった。
こうした情勢の中、元親は伏見屋敷に滞在していたらしく、その間に徳川家康の訪問を受けている。

その後、元親は土佐に帰国したが、慶長4年(1599)3月には三男・津野親忠を幽閉している。
これは、何者からか、"親忠が四男盛親の家督相続を不満に思っている" との讒言があったからだとされる。

そしてこの幽閉直後から元親は体調を崩し、4月に病気療養のために盛親とともに上洛して伏見屋敷に入った。しかし、病状はやがて悪化して重篤となり、京都や大坂から名医が呼ばれるも快方には向かわなかった。

死の直前、元親は盛親に対し、戦陣において布陣の変更を禁じることを命じた。すなわち、「桑名弥次兵衛=先陣、久武内蔵助=中陣、宿毛甚左衛門=後陣」ということらしい。
これが盛親に残した遺言となり、61歳で没した。


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