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長宗我部信親

元親の嫡男で知られる長宗我部信親。

彼の生年は、長宗我部氏が土佐統一の過程にあった永禄8年(1565年)とされており、大人になったときの身長は六尺一寸(1メートル85センチ)という大男で、身体能力も高かったようだ。

父・元親は信親を溺愛したが、それは信親へ施した教育からも垣間見ることができる。

英才教育を受ける

元親は居城・岡豊城で、家臣らの子供たちを集め、吸江庵の禅僧に手習いや文学を教えさせていたという。
特に後継者の信親に対する教育に関しては目を見張るものがある。

  • 文化面は、京や堺から多くの文化人が「太鼓・笛・謡・鞠」などの師として招かれて、信親は彼らから教育を受けたといい、他にも碁や絵も学んでいたという。
  • 武芸面は「槍・長刀・太刀・弓」など、それぞれに師が付いて稽古をしていたという。
  • 弓に関しては京都で笠原流を学び、やがて岡豊城内に弓場が設けられると、近沢越後守から指南を受けたという。

このように信親への教育は、京都との繋がりが見受けられるが、それは信親の母の実家・石谷家が将軍家に仕えた家柄だったことの影響が大きいと考えられているようだ。

信親9歳となった天正2年(1574)には、元親とともに、白髪社や八幡宮の棟札に信親の幼名「千雄丸」がみえる。
なお、翌天正3年(1575)に父・元親は土佐統一を果たしている。

元服して "信親" を名乗る

その後、長宗我部氏は四国へ進出して、阿波・讃岐・伊予3か国の同時経略を展開、そうした中の天正6年(1578)に信親は13歳で元服を果たし、ここでようやく "信親" を名乗ることになった。

実は "信"の一字は、あの織田信長から与えられたものである。

ーーどういうことなのか?

この頃の中央の情勢は、信長が織田政権を樹立して既に将軍義昭を追放し、これに義昭が毛利氏を中心とした反織田勢力を結集して対抗していた。
元親はこれより先、信親の母の実家・石谷家から明智光秀を介して信長に接近、そして従属の意を示し、信長に嫡男信親の烏帽子親を依頼していたのだ。

これは元親が信長に四国進出を保証してもらうための外交策と考えられている。なお、信親はこのときに信長から太刀と栗毛の馬を与えられたという。

父と四国制覇を成すも、秀吉に降る

信長と誼を通じて四国進出をすすめていた元親だが、天正10年(1582)に信長の心変わりで一転、信長三男・織田信孝を指揮官として四国攻めが決定された。
元親・信親父子は最大の窮地となるが、まもなくの同年6月、本能寺の変で信長が横死したことで九死に一生を得た。

長宗我部方が信長の死を知ると、信親は家中で織田方に奪われた阿波国の一宮城・夷山の2城の奪回を主張するが、このとき病中にあった元親から8月まで待つよう反対された。
若かった信親はこれが腑に落ちなかったようであり、元親の命令を無視して密かに小姓らを連れ、叔父・香宗我部親泰の守備する阿波の海部城に赴いた。だが、結局は元親から説得されて岡豊へ帰っていったという。(『元親記』)

やがて長宗我部勢は、予定どおりの8月に阿波国の三好勢を攻めるべく出陣し、信親も従軍して「中富川の戦い」や勝瑞城攻めに参加している。ただ、この勝瑞城攻めの最中、織田家の重臣・羽柴秀吉が三好勢に援軍を送りだして長宗我部氏との対立路線を明確にしたため、今度は秀吉と争うようになる。

天正11年(1583)3月に信親は、元親と連署で家臣に知行を与えており、他にも父子連署の文書がみえる。信親は18歳になっているから、次期当主として政治に関わるようになったのだろう。
また、この年の前後に長宗我部氏は四国の各地で検地をすすめていたようだ。

一方、この年は織田家の権力闘争で秀吉が勝利し、天下の趨勢はすでに秀吉に傾きつつあった。

こうした情勢の中、元親・信親父子は着々と四国各地を攻めとり、天正13年(1585)の春にはついに四国統一を果たす。しかし、まもなくして秀吉が大軍を派遣して長宗我部攻めが開始されると、信親らは成す術もなく、降伏を余儀なくされたのであった。

戸次川の戦いでの最期

敗者となった長宗我部氏は、土佐国以外は没収され、信親も人質として大阪に住まわされることになった。 ただし、同年10月には本願寺顕如の元を父とともに訪れており、翌天正14年(1586)には元親との連署で文書を発給しているから、土佐へたびたび戻っていたものと思われる。

この頃、秀吉が天下統一にあたって残すところの大きな敵は、九州の島津・関東の北条・奥羽の伊達のみであった。
一方、島津氏との戦いで苦境に立たされていた北九州の大友宗麟が、秀吉に軍事支援を要請。これにより、秀吉は同年7月に元親・信親父子や仙石久秀ら四国勢を先鋒として島津討伐を命じた。

そして信親ら四国勢は、10月には九州の豊前東四郡に入り、軍事行動を開始したのである。
なお、『フロイス日本史』によれば、府内(=豊後国の国府)にはイエズス会の施設が多くあり、修道院で説教を聴いた信親はキリシタンになることを希望したという。

そうした中、大友氏の本領・豊後では、大友家臣が島津方へ転じるなどで情勢が厳しくなり、12月には要衝の鶴賀城が島津軍に包囲されてしまった。
このため、信親ら四国勢は救援のため、12月11日に戸次川に陣を敷いた。

四国勢の軍議では、仙石秀久が川を渡って攻撃を主張し、援軍を待つよう反論した元親を押し切った翌日に攻撃することになったようだ。そして翌12日に迎えたのが、信親が討死した「戸次川の戦い」である。

この戦いで、四国勢は島津軍が少数だったのをみて川を渡ったが、島津軍の伏兵に虚をつかれ、突撃されたために崩れて、多くが討ち取られて大敗を喫した。

『元親記』に伝わる信親の最期はあまりにも勇猛果敢で見事なものであった。

それによると、信親はこの乱戦の中、家臣・桑名太朗左衛門から退却を進言されるが、これを聞かずに大長刀を振るって8人を斬り伏せたといい、さらに敵が迫ると、今度は長刀を捨てて太刀で6人を斬り伏せたという。
しかし、太刀も傷んでさらに大勢の敵兵が押し寄せ、最期は自害しようとしたが敵に討たれてしまったという。

信親は普段から兼光の刀をさしていたが、このときは信長からもらい受けた左文字の刀を持っていたという。 まだ22歳という若さであった。


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