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【名場面】毛利勝永夫妻の誇り高き決断(1614年)

毛利勝永は関ヶ原合戦(1600年)で家康と敵対したため、戦後は領地を没収されて土佐国の山内家へ預けられていた。

そうした中、慶長19年(1614年)に豊臣秀頼は大阪の陣に際し、勝永に大阪入城を求める密使を送った。

これはそのとき勝永が豊臣方に味方することを決断したときの話である。
※『明良洪範』『常山紀談』等

▼主な登場人物

  • 毛利勝永アイコン

    毛利勝永

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    勝永の妻

  • 徳川家康アイコン

    徳川家康


---慶長19年(1614年)---
【土佐国】

勝永はかつての主君・豊臣家に味方するのは望むところであったが、前回の敗戦(=関ヶ原)で妻子を辛い目に遭わせていた。

勝永は秀頼の誘いを受けて大阪へ行くべきかどうか迷っていた。

毛利勝永アイコン

勝永

(果たして今回はどうなるか。我が意をうち明けてもよいものなのか・・・・。)

こうした様子の夫をみて妻は言った。

勝永の妻

女は妻となれば、夫に従って浮沈をともにするのが道でございます。あとのことはご心配遊ばさず、御望みのことをお聞かせくださいませ。

女性アイコン
毛利勝永アイコン

勝永

・・・・。

今度こそ先年の汚名をそそぐため、秀頼公に味方したいと思うておる。しかし、わしがここを出ればそなたたちに災いが及ぶであろう。それが気がかりなのだ。

これに妻は微笑みながら答えた。

勝永の妻

なんと情けないお言葉・・・。

そのようなことを何で嫌がるのでしょうか。夜明けにでも船を出して武名をあげてくださいませ。 それは家の喜びでございます。

女性アイコン

このように妻は臆するどころか、武名を汚すことは恥だと、そして先祖の家名を興してほしいことを勝永に訴えたのである。

勝永の妻

私どものことは御心配なく。もし討ち死になされるようなことがございますれば、私どもも後を追って土佐の海に沈みましょう。ご運があればまたお会いできましょう。

女性アイコン

これに喜んだ勝永は大阪入城を決断。勝永は山内家から1000石をもらうなど厚遇されていたが、監視されている立場でもあったために、秀頼に味方するとして出国することは当然のことながら認められない。
そこで勝永は一計を案じた。

勝永は2代目土佐藩主・山内忠義と衆道の関係にあった。そして、忠義は徳川と豊臣の戦いがはじまろうとしているまさに今、父の山内康豊に勝永の監視を依頼して自らは兵を率いて京へ向かっていた。

勝永はこれを利用して、山内康豊に土佐を出る申し出をした。

毛利勝永アイコン

勝永

・・・お願いがございます。

それがしは忠義殿と衆道の契りを交わしている間柄ゆえ、どうしても忠義殿を助けたいのです。これはその証でございます。

勝永は康豊に忠義との義兄弟の誓紙をみせ、さらに自らの妻子を人質に置くことも約束し、土佐を出る許可をもらった。

こうして勝永は徳川方に味方すると偽って長男を連れて土佐を脱出し、大阪入城を果たしたのである。

---その後---
【家康の居所にて】

勝永の脱出の件はすぐに忠義の知るところとなり、怒った忠義は勝永の妻子を捕えて城内に幽閉すると、ただちに家康に報告して土佐に残る勝永妻子の処分を求めた。

これに対して家康は・・

徳川家康アイコン

家康

忠義。そう憤慨するでない。
勝永のそれはまさに真の武士たる志といえよう。誉めるべきことであり、妻子を罰してはならぬぞ。

こうして勝永の妻子は助命されたのである。

大阪城に入った勝永はのち、大阪の陣で真田幸村に引けをとらない戦功をあげ、最期は豊臣滅亡とともに潔く自害して果てた。


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