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【超入門】5分でわかる真田幸村

真田幸村イラスト
大阪の陣で徳川家康を死の淵まで追いつめ、華麗に散った男。「日ノ本一の兵」とまで賞賛された男の生涯とは?

幸村って何者!?

つい最近、NHK大河ドラマ ”真田丸” の主人公として話題になった真田幸村。彼の人気はなにも今にはじまったことではなく、江戸時代から軍記物『難波戦記』や小説『真田三代記』などでヒーローとして描かれ、明治・大正時代には ”真田十勇士” と呼ばれる幸村を支えた10人の家臣たちが「立川文庫」によって創作された。
”幸村=ヒーロー”というイメージが定着した現代では、小説をはじめ、TV・映画・ゲーム・漫画等の題材にしばしば取り上げられ、戦国武将の中でダントツの人気を誇っている。

しかし、その生涯は苦難の連続であった。
というのも、幸村の前半生は武田・上杉・豊臣秀吉の人質という立場であり、関ヶ原合戦後は高野山へ追放されて貧困生活を送っている。実のところ、幸村が歴史上でスポットライトを浴びたのは、豊臣方の将して徳川幕府と戦った "大阪の陣" だけといえる。

いま現在、真田氏研究は随分と進んでいる感はあるが、歴史学者の "平山優" 氏によれば、幸村に関する確実な史料はほとんどないという。幸村は後世の軍記物などを元に、脚色されて作られた謎多き人物なのである。

主君・武田氏の没落を経験?謎の幼少期

幸村は永禄10年(1567年)真田昌幸の次男として誕生。ただし、生年はあくまでも通説で、1570年誕生説などもある。また、幸村の実名は "信繁" であり、"幸村" という名前は後世の創作の可能性もあるらしい。

幸村が生まれた頃、真田氏は幸村の祖父にあたる真田幸隆が甲斐武田氏の家臣として活躍し、武田家中においての家格を大きく上げる等して、真田家の礎を築いていた。
真田のルーツは幸隆が信濃国小県郡真田郷(現在の長野県東御市)を領する小豪族から身を興し、真田の姓を称したことで始まったという。

幸村は甲府で生まれ育ったとみられているが、現在のところ、幼少期の幸村を示す史料は一切見あたらず、謎に包まれている。

主家の武田氏は、武田信玄の代にあたり、その勢力は甲斐・信濃のほか、駿河・遠江・美濃・飛騨にまで及ぶほどであったが、その信玄、そして祖父・幸隆が立て続けに死去してしまう。
信玄の後継者・武田勝頼は、天正3年(1575年)長篠の戦いで、織田・徳川連合軍に大敗して勢力を弱体化させてしまった。

この敗戦で、真田の家督を継いだばかりの幸隆長男・真田信綱と、二男の昌輝が討死したため、真田家にとっても大きな痛手となった。そこで、真田家ではやむなく三男で幸村の父にあたる昌幸が家督を継ぐことになったのである。

武田滅亡と、それに続く信長の横死

その後、天下の流れは織田信長に傾きつつあり、ついには天正10年(1582年)に真田の主家・武田一族も信長に滅ぼされ、昌幸もすぐさま信長に従属した。

信長は奪取した武田旧領(信濃・甲斐・上野)を恩賞として徳川家康や家臣らに分け与え、真田領の信濃国小県郡・上野国吾妻郡および利根郡の沼田領は、信長重臣・滝川一益に与えられた。つまり、真田家は滝川一益の配下に組み込まれることになったのである。

しかし、そのわずか数カ月後には "本能寺の変" が勃発し、織田信長がまさかの死を遂げた。

この事件は、真田にとっても最悪の事態であった。

甲斐武田氏に続き、織田信長という強大な後ろ盾を失うということになり、信長の死によって武田旧領(信濃・甲斐・上野)は一揆が勃発するなど大混乱となり、やがて空白地帯と化していった。そして、この地を治めようと上杉・北条・徳川といった周辺国の大大名や武田遺臣らによる争奪戦が勃発することになるのである。

武田旧領争奪バトルで人質へ

滝川一益・木曾義昌の人質に

武田旧領を巡る争い(天正壬午の乱)がはじまると、織田家に従属していた真田昌幸は、上杉・北条・徳川氏の3氏に囲まれながらも、智謀をめぐらして主君を次々と転じていった。織田から上杉氏へ、さらに北条氏、徳川氏というように・・・。
これは真田の領地を守るためにしたことであった。

この戦いが開始された直後、滝川一益は人質を伴って上野国からの脱出を図るも、途中で信濃国木曾郡の通過を試みた際に武田旧臣の木曾義昌によって領内通過を拒否された。しかし、一益は人質と引き換えに領内通過を認めてもらい、本領の伊勢国に無事帰還した。

このときの人質の中には幸村と昌幸の母・河原氏が含まれていたという。また、幸村は木曾義昌に引き渡されて拘留された後、解放されて真田の地へ帰還しているが、それがいつなのかは定かではない

この武田旧領を巡る争いは最終的に北条氏と徳川氏の和睦で終結したが、和睦条件の中に”信濃・甲斐国=徳川のもの””上野国=北条のもの”とする割譲条件が含まれていた。

昌幸は乱の終結時には徳川家康に従属していたが、この和睦は昌幸にとって到底受け入れられるものではなかった。

昌幸にとって”上野国=北条のもの”とすることは、武田勝頼より上野国の領地を受け継ぎ、この乱で自ら切り取った上野国吾妻郡(岩櫃城など)や利根郡の沼田領(沼田城など)をも北条方に明け渡すということであったからである。

これがいわゆる"沼田領問題"であり、北条はもちろんのこと、やがて主の徳川家康とも対立していくことになる。

乱の後、家康の配下となった昌幸は、上杉氏や北条氏とたびたび交戦し、天正11年(1583年)には徳川軍の力を借りて上田城を築城している。しかし、一方で沼田領問題に関し、昌幸は家康から沼田領を北条に明け渡すように迫られ、昌幸と家康の関係は次第に悪化していった。

また、このころの幸村の動向はわかっていない。

越後上杉家の人質に

天正13年(1585年)には沼田領問題でついに徳川方との関係が破綻。これに昌幸は再び上杉景勝に接近して上杉氏に転じたが、このときようやく幸村に"上杉氏の人質"という役割が与えられ、越後で暮らすこととなるのである。

その後まもなく昌幸の離反を知った徳川軍が昌幸の居城・上田城に攻め込んできて第一次上田合戦が勃発。この戦いで真田軍は徳川軍を撃退し、真田の武功と六文銭の旗印が日本中に知れ渡ることとなった。

一部の史料では、このとき幸村が初陣したとされ、兄・信幸とともに出陣した、上田城内に留まっていた、等の記録が残っているというが定かではない。
ちなみに秀吉による北条氏討伐(1590年)のときが幸村初陣の通説とされている。

また、幸村の立場は当初は上杉景勝の人質であったが、景勝から知行を与えられたという記録も残っていることから、途中で人質から家臣という立場に切り替えられたという推測もなされている。

豊臣政権に服属、秀吉の人質→家臣に

秀吉の人質に

天正14年(1586年)、信長の天下統一事業を継承し、巨大勢力となっていた豊臣秀吉が諸大名らに上洛を求めて臣従をせまると、上杉景勝・徳川家康らは秀吉に屈して従属した。

天正15年(1587年)には昌幸も上洛して秀吉に臣従し、秀吉の命によって真田家は敵であった徳川家康の与力大名とされた。また、これによって上杉氏との主従関係は解消されることとなった。ここに真田家は豊臣大名として正式に認められ、信濃と上野の真田領を安堵された。

このとき幸村は秀吉への人質として提出され、越後から大坂(または京都)に移ったとみられるが、その時期は諸説あって定かではない。また、秀吉の元で京都の聚楽第の城下に居住し、同時期に元服したと考えられているがこれも定かではない。

天正16年(1588年)には北条氏も秀吉の圧力に屈してついにその軍門に降った。しかし、一方で沼田領問題は解決しておらず、北条氏は上野・沼田領への侵攻を繰り返していた。

そこで秀吉は沼田領問題の実態調査を開始。その裁定結果は、"沼田領のうちの沼田城を含む3分の2=北条氏"、"名胡桃城を含む3分の1=真田氏の所領"とする分割案とした。(沼田領裁定

しかし、沼田城からみて名胡桃城は目と鼻の先にあり、これを嫌った北条氏が翌1589年(天正17年)に名胡桃城を奪取する事件を起こした。

秀吉はこれを惣無事令(私闘を禁じた法令)違反として北条氏の討伐を決意した。

沼田裁定に関して幸村が関わったかどうかはわかっていない。また、同年に秀吉が諸大名に妻子を在京させる命をだしている。これに伴って幸村は秀吉の人質から出仕(=家臣)に切り替わったと考えられているが確証はない。

初陣を飾る

天正18年(1590年)、豊臣政権による北条氏の討伐が行なわれ、北条氏は滅亡した(小田原征伐)

通説ではこのときが幸村の初陣とされ、兄・信幸とともに出陣して碓氷峠や松井田城下で北条家臣・大道寺軍と交戦したという。しかし、一部の史料には信幸の軍功のみで幸村のことが記されていないものもある。

北条を滅ぼした秀吉は東国を再編し、その後、残りの東北平定に向けて奥州に進軍し、真田軍もこれに従った。奥州仕置

このとき幸村ら父子は秀吉から先陣を命じられたという。また、翌1591年(天正19年)には奥州仕置への反発で九戸政実の乱が勃発したが、これにも幸村らは出陣して鎮圧に貢献したとされている。

豊臣家とのつながりを深める

文禄元-2年(1592-93年)には豊臣政権による朝鮮出兵(文禄の役)が行なわれている。真田父子は前線基地の肥前国・名護屋城に参陣したが、渡海したかどうかはわかっていない。

文禄3年(1594年)には兄・信幸とともに従五位下左衛門佐に叙任され、豊臣姓を下賜されている。また、このころに豊臣氏家臣・大谷吉継の娘を娶ったとみられる。なお、幸村・昌幸・信幸の3人は同年から慶長元年(1596年)まで京都伏見城の普請役を命じられている。

慶長2-3年(1597-98年)にも再び豊臣政権によって朝鮮出兵(慶長の役)が行なわれたが、これに幸村ら真田一族が関わったかどうかはわかっていない。

そして、この慶長の役の最中に秀吉がこの世を去り、その後の豊臣政権に暗雲が立ち込めることになる。

関ヶ原で兄と敵対!?戦後は高野山送りに

秀吉の死後、大老の一人・徳川家康は秀吉の遺命を破って諸大名と徳川氏との婚姻関係を結ぶ等の専横を極めると、これに前田利家石田三成らが反発するなど豊臣家中では大きな対立が生じた。

そして慶長5年(1600年)には家康打倒に向けて石田三成が挙兵し、天下分け目の戦い "関ヶ原の戦い"となるが、三成はその直前に諸大名に書状を送り、家康の専横を説いて豊臣家に忠誠を尽くして味方するように求めていた。

兄・信幸と袂を分かつ

幸村と昌幸が下野国・犬伏に着陣しているときに三成からの書状が届くと、昌幸・信幸・幸村は徳川方に残るか、石田方に寝返るかの密談を行ない、幸村と昌幸は石田三成方に、信幸は徳川方に加担するという結論となって袂を分かった。(犬伏の別れ

この後、昌幸と幸村は居城・上田城へ戻るが、これを知った家康は昌幸討伐のために嫡男・徳川秀忠の大軍を上田城に向かわせた。第二次上田合戦
この上田城での戦いはまたもや昌幸・幸村率いる真田軍が徳川方を翻弄して撃退しており、徳川秀忠軍は関ヶ原決戦に向かったことで真田方の勝利に終わった。

九度山での蟄居生活

関ヶ原決戦は1日で決着が着き、石田三成ら西軍は敗戦して処刑となり、西軍に加担した幸村と昌幸は高野山へ追放となり、高野山の麓の九度山で長い蟄居生活を強いられることとなった。

このとき昌幸・幸村父子に付き従った真田家臣は高梨内記ら16人といい、また、幸村の妻子も同行したという。

九度山での生活は家康の命を受けた浅野幸長によって監視されていたが、狩猟や釣など比較的自由な行動が認められていたというが、国元からの仕送りに頼るなど、かなり貧しい生活を送っていたようである。

この間、徳川家康は慶長8年(1603年)に征夷大将軍となって江戸幕府を創設し、慶長10年(1605年)には早くも将軍職を嫡男・秀忠に譲って将軍職は徳川家が世襲していくことを示した。

慶長16年(1611年)には徳川方にたびたび赦免の嘆願をしていた父・昌幸が病没。昌幸の死の間際に幸村に遺言を残し、のちの大阪の陣(1614-15年)を予言したという。

慶長17年(1612年)、幸村は出家して"好白"と名乗っている。

大阪の陣での死闘

豊臣の将として大阪入城を果たす

慶長19年(1614年)、豊臣家を滅ぼそうと考えていた家康は「方広寺鐘銘事件」をきっかけとして豊臣家中を分断させて開戦の大義名分をつくり、大阪城攻撃の令を諸大名に発した。

これに対し、豊臣方でも諸大名らに呼びかけるも、応じる大名はなく、代わりに浪人たち集める策をとった。そして、九度山の幸村の元にも豊臣方の使者が派遣され、豊臣方の将として招かれた幸村は九度山を脱出し、昌幸の旧臣らも集まって大阪入城を果たすのである。

幸村は九度山脱出の際、徳川から監視を命じられていた百姓らを屋敷に招いて酒で酔いつぶし、その隙に脱出したという。

大阪冬の陣:真田丸で激戦

大坂冬の陣が開戦となると、大阪方ではいくつかの派閥があったために軍議は難航した。このとき幸村は城外出撃策を主張したものの、結局受け入れられずに籠城策に決定した。しかし、幸村は大阪城唯一の弱点である三の丸南側に砦を構えて迎撃しようと考え、出丸の構築を願い出てこれは受け入れられた。こうして構築されたのが"真田丸"である。

真田丸で徳川軍を迎え撃った幸村の軍は快勝。そして、幸村は初めてその武名を天下に知らしめたのであった。(真田丸の戦い)

幸村の軍は旗、鎧、兜などすべてを赤で統一していたという(真田隊の赤備え)。大阪城の攻略に難航していた家康は大砲による砲撃戦で講和に持ち込むという作戦に切り替えた。激しい砲撃を受けて淀殿らは動揺、その結果、幸村ら諸将がこれに反対したにも関わらず和平は成立してしまった。
しかもその条件には大阪城の堀の埋立てと惣構(そうがまえ)・二の丸・三の丸の破却という驚愕の内容が含まれていた。これは家康が大坂城を無力化することを目的とした策であった。こうして大阪城は本丸を残して丸裸にされ、防御機能を失うのであった。

つかの間の和睦

慶長20年(1615年)に入り、和睦期間中も豊臣の牢人衆は大阪に居座り続けた。

彼らは仕官もままならずに行く場所もなかったため、秀頼を頼り、一方の秀頼も自分に味方してくれた彼らを無碍にできず、結局は召し抱えたままにしていたのである。

こうした不穏な動きで豊臣方は自ら開戦のきっかけを作ってしまった。
これに家康は豊臣秀頼が大阪城を退去すること、豊臣方の牢人衆を解放して武装解除すること等を促したが、開戦派の牢人衆らの意向に巻き込まれてしまった秀頼はこれを拒否し、大坂夏の陣での戦いを決意した。

大阪夏の陣:家康本陣突撃と壮絶な死

もはや籠城戦ができない豊臣方は城外へ出撃するしかなく、戦いは豊臣方の先制攻撃で幕を開けた(郡山城の戦い)。

兵力で圧倒的に劣る豊臣方は徳川の大軍の集結を防ぐべく、要所で迎撃して敵の出鼻をたたく作戦にでた。それが道明寺の戦い八尾・若江の戦いであったが、この戦いで後藤又兵衛や木村重成といった大将が相次いで討死し、大阪城への撤退を余儀なくされた。

こうして徳川の大軍は道明寺付近に集結、豊臣方の作戦は失敗に終わったのである。

そして追い込まれた豊臣方は最終決戦にむけて最後の作戦を立てた。

それは秀頼が自ら出陣したときを戦闘開始の合図として、天王寺に布陣している最前線の幸村・毛利勝永らの隊が徳川軍を誘いこみ、さらに別働隊の明石全登が背後から攻撃を行なって挟み撃ちにし、狙いを家康本陣に絞って全兵力を投入して突撃するという作戦であった。

しかし、徳川方が先に攻め込んできて毛利隊が合図を待たずに射撃で応戦してしまったため、これを受けて幸村らは開戦に踏み切らざるを得なくなったのである。

こうして幸村は正面から家康本陣への突撃を敢行。この突撃は豊臣諸部隊が全線にわたって実施したことで徳川勢は総崩れとなった。

幸村の突撃は3度にも及び、本陣まで迫られた家康は逃げ出して自害を決意するほど追い詰められたともいわれている。

しかし、豊臣方も逃亡などで戦線離脱する者がでて崩れかかると、これを機に徳川方は態勢を立て直して一気に反撃。豊臣の兵は敗戦して退却するしかなかった。

疲労が頂点に達していた幸村は、その退却中に松平忠直隊の西尾宗次と出くわし、討ち取られたのであった。享年49。


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