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幸村、上杉景勝の人質へ(1585年)

昌幸、徳川と断交して上杉方へ

天正12年(1584年)、沼田・吾妻領の問題で家康と不和となった真田昌幸は、上杉景勝との接触を開始する。

天正13年(1585年)、家康から沼田引き渡しの命令が届けられた際、『三河物語』によると、昌幸は「沼田は家康からもらった領地ではなく、自ら確保した。その上、今度忠節に対しての恩賞を貰う約束だったが実行されていないから、恨みにすら思っている。おまけに沼田を渡せというのは思いもよらない話だ」と拒絶し、「もはや主君とあおいで仕えるつもりがない」と言いきったという。

昌幸は徳川方との断交のタイミングを見計らっていたが、上杉景勝は過去に一度、真田に裏切られていた不信感からか、和睦には慎重であった。
同年5月(3月説もあり)、北信濃・福島城主で信濃国衆の須田信正が昌幸と通じた嫌疑で成敗される事件が起きており、景勝と昌幸の関係はよくなかったように見える。

※須田信正は天正12年(1584年)4月の時点(=屋代秀正謀反時)で疑われていた。

しかし、6月には景勝が家康との対決を想定し、海津城代を上條宣順から重臣の須田満親に変更。

こうして7月には、景勝が昌幸に起請文を送り、正式に従属が決定した。
起請文の内容は主に以下のようなものであった。

  • 海津城代・須田満親より信濃国の知行を与える。
  • 利根(沼田)・吾妻(岩櫃)・小県郡(上田)と坂木庄内の知行を安堵する。
  • 佐久郡と甲州のどこかで一か所、上野国長野一跡(=箕輪領をさす)を与える。
  • 屋代秀正の旧領を与える。
  • 禰津昌綱の処遇を昌幸に任せる(=禰津氏を与力化)
  • 従属する以上、上杉は真田を見捨てることはない。
  • 敵の侵略時には上田の他、沼田・吾妻領にも援軍を派遣する。
  • 密謀の噂があっても関係継続に務める。

こうして真田は、翌月の家康との対決を前に上杉の後ろ盾を得たのだ。

上杉の人質となる真田幸村

8月には、家康が真田討伐のために上田城攻めの出陣命令をだしており、幸村は上杉方に人質として送られている。

ここで、幸村が上杉景勝のもとへ送られるまでの流れを以下にまとめてみた。

  1. 真田氏が上杉氏に従属する(7月)。
  2. 幸村が人質として海津城へ送られる(8月)。
  3. 真田討伐で上田城に攻めてきた徳川軍と交戦(閏8月:第一次上田合戦)
  4. 上田合戦終了後、幸村は海津城から越府もしくは春日山城下に移る。

上記で、幸村が海津城に送られたとき、矢沢三十郎頼幸が須田満親から謝意の書状を受け取ったようである。
三十郎は徳川との戦いに備え、砥石城(もしくは矢沢城)で上杉の援軍を迎え入れて守備を固めていたため、幸村に同行はしていないとみられている。ただ、その後幸村が春日山城下に在府した際にはお供しており、翌年の上杉軍による新発田重家攻めに参陣している。

こうしたことから、三十郎は幼年の幸村に代わり、上杉氏の軍役を担っていたようである。

幸村の人質生活や立場は?

越後での人質生活については、残念ながら具体的なことは全くわかっていない。
NHK大河 "真田丸"では源次郎(=幸村)が越後の上杉景勝のもとで暮らす様子が描画されていたが、フィクションの世界であろう。

では、上杉家での扱いはどうだったのか?

『真武内伝』によれば、景勝から信濃国埴科郡の屋代家の旧領3000貫文のうち、1000貫文を与えられたという。
このことは実際に一次史料で "弁"(=幸村と推定されている)という人物が屋代旧臣の諏方久三に知行地を安堵しているため、事実とみられている。

また、『真武内伝』を元に、歴史学者の"丸島和洋"氏と"平山優"氏の見解を以下にまとめてみたので参考までに。

  • この史料が幸村の幼名 "弁" の終見となっているため、幸村は間もなくして元服した(丸島氏)。
  • 幸村は、景勝から拝領した知行地に軍事動員をかけ、自らも出陣しようとしていた(平山氏)。
  • 幸村は上杉の人質であったが、景勝から直接知行を与えられ、出仕に切り替えられた(平山氏)。
  • 幸村が人質から出仕に切り替わったことで新たな人質として母・山手殿が海津城に送られた(平山氏)。
  • 上記の推察を前提に、幸村は第一次上田合戦に参戦した(平山氏)。


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