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真田昌幸、家督を継ぐ(1553-76年)

信玄の人質から側近へ

真田幸村の父・真田昌幸は真田幸隆の三男として誕生し、幼名は源五郎といった。

1553年(天文22年)、7歳の昌幸は幸隆によって主君・武田信玄へ人質として差し出された。 この頃、幸隆は元々の自領であった真田郷を取り戻すことが現実になりつつあった。このため、幸隆が子の昌幸をわざわざ人質にだしたのは信玄への忠節と感謝の証であると受け取れる。
その後、時期は定かではないが、昌幸は信玄の奥近習衆(=信玄の側に仕え、身辺の世話などの雑務をする者)に抜擢される。人質から側近になるという昌幸の異例の抜擢の背景には昌幸の人を見る眼力があったとされ、それを信玄が一目置いたことがあった。

信玄は家臣の中から若き6人の者を選抜して、密かに家中の者を観察させて報告を命じていた。その6人のことを信玄は「耳聞き」と呼び、彼らの人物評を大いに参考にしていたという。その中の一人に昌幸がおり、他に金丸昌続(土屋昌続)、三枝昌貞、三枝新十郎、曾根昌世、曾根与市之助が選抜。そして信玄がこの6人に人物批評を命じたのは彼らに「私心」が全くなかったからだという。

1561年(永禄4年)、武田信玄と上杉謙信との激戦で有名な「第四次川中島の戦い」で昌幸は初陣を果たしているが、このときの昌幸は土屋昌続らとともに本陣の守りの戦闘で信玄の周りを固めていたが、これに全く動じなかったという。

その後、昌幸は喜兵衛尉と改名。さらに信玄の母・大井夫人の実家である大井氏の一族・武藤氏の養子となり、武藤喜兵衛尉昌幸となった。喜兵衛尉と改名したのは1569年(永禄12年)頃と推察され、武藤姓が史料で確認されているのは1572年(元亀3年)である。
また、この間の1570年(永禄13年~元亀元年)には騎馬15騎・足軽30人を預かり、足軽大将に抜擢されている。

昌幸は信濃衆真田氏という他国衆の出身で、もとは人質であるにもかかわらず信玄の一族の養子に入り、後に武田氏の奉行人衆に列するまでに至るという、同僚の中においても極めて異例の出世を果たすのであった。

ちなみに昌幸の弟で幸隆の四男・信尹も武田一族の加津野氏に養子に入っている。

昌幸の武功においては、1569年(永禄12年)の北条軍との戦いである「三増峠の戦い」で信玄の御検使(各部隊の監督を務める役職)として先陣の馬場信春隊に本陣から派遣され、このとき、一番槍の功をあげたといわれている。また、翌1570年(永禄13年)の駿河国花沢城の攻防戦では三枝が一番槍、昌幸と曾根が二番槍の戦功を挙げたという。

信玄、そして幸隆の死去

1573年(元亀4年)、武田軍が西上作戦を展開していた中、信玄が病により死去。このため西上作戦は停止することとなり、まもなく徳川家康が反撃にでて、三河国の長篠城の攻略に乗り出してくる。このとき、昌幸は長篠救援軍の指揮官として同僚の山県善右衛門尉昌貞(三枝昌貞)とともに出陣している。

こうした中、1574年(天正2年)には信玄の後を追うように幸隆が死去。長男・信綱が家督を相続し、三男・昌幸は足軽大将を努めつつ、勝頼側近として政権中枢で活動していた。

勝頼側近時代の昌幸の史料は極めて少ないが、昌幸は信玄晩年から勝頼時代にかけ、武田氏の命令書に「奉者(ほうじゃ)」(=武田家当主の決定や了承を奉じて朱印状発給に携わる家臣)として登場している。また、昌幸は勝頼にもしばしば召し出され、甲府や駿河・遠江での軍事作戦に従軍して勝頼を支えたことが知られている。

昌幸、真田家の家督相続へ

真田家の家督は長男・信綱が継いでおり、三男の昌幸は本来家督を相続する立場ではなかったが、家督相続せざるを得ない出来事が起こった。信長・家康連合との戦いとなった1575年(天正3年)長篠の戦いである。

この戦いは、信玄死後に武田家当主となった勝頼が徳川家康に奪われた長篠城を攻略しようとしたものとされていた。しかし、近年では岡崎町奉行を務めていた徳川方の大賀弥四郎らが武田氏の調略に応じ、謀反を企図したことを受けてのこととされている。
武田軍は信濃から奥三河に進軍して岡崎にせまったが、大賀弥四郎らの離反計画はバレてしまい、蜂起は失敗に終わってしまう。 そして、岡崎攻略をあきらめた勝頼が最終的に攻撃目標を長篠城に変更したという。

戦局は武田軍が長篠城の攻略に手こずって陥落できない間に織田軍が救援に到着。これを受けて武田方は軍議を開き、山県・馬場・真田ら重臣はこぞって撤退を主張するも、勝頼は交戦に踏み切ってしまうのであった。
こうして織田・徳川連合との決戦が始まるが、織田・徳川軍の馬坊柵に攻めあぐねて、さらに鉄砲衆を相手に武田軍は劣勢となっていった。そうした中、真田信綱・昌輝兄弟は武田軍の右翼を担当し、馬場信春や土屋昌続とともに激戦を展開し、真田隊は馬場信春隊の後を受けて攻撃に加わり、3重の馬防柵のうち1重目を破るもその間に真田隊の多くが戦死。真田信綱・昌輝兄弟は深手を負うもなんとか退却したが結局、戦死したという。

『信長公記』によると山県や真田をはじめ武田軍の多くの諸将の死因は鉄砲ではなく、全軍退却時に追撃されて戦死したとされている。戦死した重臣は真田信綱・昌輝兄弟の他、山県昌景、馬場信春、内藤昌秀、甘利信康、原昌胤などであった。

長篠の戦いで大敗し、多くの重臣を失った勝頼は各城への新たな家臣の配備や戦死者の後継者の指名など、戦後処理に追われた。そして、当主不在となった真田家の後継者には昌幸が指名となった。

昌幸は家督を継いですぐに甲府を離れて上野に赴任したらしく、1576年(天正4年)には白井城代に就任したことが史料で確認できる。
白井城は幸隆が調略した城で上杉方を抑える上野の要衝であった。また、もうひとつの要衝・箕輪城は城代の内藤昌秀が戦死したため、武田一族の板垣信安が在城し、昌幸とともに上野支配と統括を実施することとなった。


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