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頭角をあらわす真田昌幸(1578-80年)

御館の乱と甲相同盟の破綻

1578年(天正6年3月13日)、越後では上杉家当主・上杉謙信が病没。そしてその直後、謙信の2人の養子である上杉景勝と上杉景虎との間で家督を巡り、上杉領内で二派に分裂して内戦が勃発した(御館の乱)

工作によって上杉諸将の旗幟が鮮明になってくると、景虎は天正同年5月に春日山城から退去して御館に移り、籠城して北条氏政に救援を要請。また、配下に命じて春日山城城下に放火を行うなど撹乱戦術を展開した。
一方で春日山城を占拠した景勝は、北条氏政軍を警戒して上越国境の防備を固めていった。

※御館とは、上杉謙信が関東管領・上杉憲政を迎えた時、その居館として春日山城下に設けられた関東管領館のこと。

上杉領の東上野は武田氏と北条氏に挟まれていた土地ということもあり、厩橋城(まやばしじょう)城主の北条高広や沼田三人衆の一人・河田重親など、北条家から養子に入った景虎を支持するものが多くいた。東上野での内戦は5月21日に、景勝方の猿ヶ京城が景虎方の攻撃を受けるもこれを撃退していることが史料でみてとれる。

御館の乱を知った武田氏と北条氏は景虎派の支援で一致し、ともに越後侵攻を企図。

武田方の越後国・上野国への侵攻

武田勝頼は5月下旬に景虎援軍として武田信豊を派遣し、海津城の春日虎綱と合流させた。これに危機感を募らせた景勝はすぐに武田信豊に使者をだして和睦を申し入れ、交渉は武田信豊と春日虎綱を仲介として勧められていった。(※6月14日に春日虎綱は病没)

同じころ、真田昌幸は勝頼の指示で東上野の調略に動いており、武田方はこの混乱に乗じて東上野の上杉領に対する調略を行なっていたのであった。5月には沼田の武士が在所を捨てて武田方に走らせており、6月3日には上野・不動山城の乗っ取りに成功している。

一方で北条氏政はこのころ、北関東の大名の連合軍(佐竹氏・結城氏・宇都宮氏・那須氏など)との戦い(小川台合戦)で拘束されて身動きができず、そして7月中旬になって氏政はようやく上野国に入った。

武田と北条の対立表面化

武田方は北条氏政が越後に出兵しないため、不信感を募らせて東上野の上杉領調略に動いた。そして、北条方はその東上野調略の動きに不信感を募らせて武田方に抗議を申し入れている。このため、昌幸は6月にやむなく沼田城の調略から手を引いている。
こうして武田・北条は上杉領を巡る問題で早くも言い争いを始めることになるのであった。

武田方と景勝派との和睦

勝頼は景勝との和睦交渉中も越後への進軍を止めることなく、根知城を占拠。景勝はやむなく武田方の和睦条件を受け入れ、北信濃の割譲に同意し、東上野も切り取り次第とすることとした。勝頼のねらいは上杉領の割譲を無傷で実現し、さらに景勝と景虎の和睦を仲介することであった。

勝頼は6月29日から越後に在陣して景勝と景虎の和睦交渉を行ない、8月18日には景勝と起請文を取り交わして妹・菊姫を景勝に娶らせることを約束(甲越同盟)
8月20日には景勝と景虎の間での和睦を成立させているが、これはすぐに破綻。そして、徳川家康が武田領への攻撃を開始してきたため、8月28日にやむなく景勝と景虎の和平仲介を断念し、越後から撤退した。

9月9日に北条氏政は北条氏邦らに三国峠を越えさせ、上田庄攻撃をさせている。しかし、氏政自身は東上野の制圧にこだわって上野にとどまっていた。氏邦は上田長尾衆の抵抗で越後の奥深くに進軍できずに深雪に見舞われて苦戦。12月には帰国し、困難な戦線は東上野衆に押しつけられることになった。

1579年(天正7年)に入り、豪雪の中で補給もなく孤軍奮闘を強いられていた北条方の東上野衆(北条方。河田重親・北条高広ら)は不満を募らせ、天正同年2月には樺城・荒戸城などすべてを放棄して上野国に撤退してしまった。

3月24日、勝頼の撤退がひびいて景虎は滅亡し、上杉家当主・上杉景勝が誕生となった。これにより武田・北条の関係悪化が確実なものとなり、勝頼は北条との戦いを想定して外交政策を甲越同盟の強化にシフト。越後国・海津城代の春日信達を駿河国へ配備、また、上野国・箕輪城に内藤昌月を配備するなどしている。さらに駿豆国境の三枚橋(沼津)に城普請を実施。
こうした武田方の軍事行動が氏政を刺激し、甲相同盟は破綻を迎えた。

昌幸の上野国・北条領の調略

8月、前橋城主の北条高広が武田方の調略に応じて離反。
9月には、駿豆国境で武田勝頼と北条氏政の戦いが開始された。この月に北条氏政が徳川家康と同盟を締結したことで、勝頼は駿河国・遠江国で徐々に守勢に回っていくこととなった。
12月には不動山城主・河田重親、沼田城代・小中彦兵衛尉らが武田方の調略に応じて離反し、上野国では武田方が優勢となっていった。

この年、上野国は武田方が北関東の諸大名(佐竹・結城・宇都宮・那須氏ら)と提携して北条包囲網を形勢していたため、北条氏は上野国では苦しい状況に置かれていた。
北関東の諸大名との交渉や相談は武田家の重臣らが行なっていたが、宇都宮氏への情報提供や軍事作戦上の相談は昌幸が行なった。その後、昌幸は佐竹や会津の蘆名氏との連絡が円滑に進むよう、通交ルート確保を相手方と相談するよう勝頼から指示を受けている。
こうした状況に危機感を感じた氏政は信長との同盟交渉を開始し、翌1580年に成立させている。

1580年(天正8年)に入ると、昌幸は東上野の沼田城攻略を命じられ、2月には小川城主・小川可遊斎を調略。そして、その後の沼田方面への攻勢は真田一族の矢沢綱頼に任せ、昌幸自身は駿豆国境で武田勝頼と北条氏政の戦闘に転じることとなった。
しかし、3月に沼田方面が劣勢になったため、昌幸が再度援軍として沼田へ赴くと、上野に帰還した昌幸は5月までに猿ヶ京城を調略によって奪取し、5月~7月にかけては名胡桃城(なぐるみじょう)も調略によって開城させた。

沼田城を完全に包囲するまでに至った報告を受けた勝頼は上野出陣を諸将に命じ、昌幸の沼田城に在城する敵武将への調略も大詰めを迎えた。そして、8月頃にはクーデターを起こさせ、ついに沼田を開城させることに成功。

こうして上野国での攻勢が一段落すると、昌幸は今後の支配をまかされ、岩櫃城・沼田城を中心に、いくつかの諸城を管轄下に置くまでになった。


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