1581年(天正9年1月)、武田勝頼は織田氏や徳川氏に対抗するため、本国の甲斐に新府城の築城を開始した。昌幸は勝頼の命で築城に必要な人夫の動員を実施。そのときの昌幸の命令書は以下のようなものであった。
等であった。
信玄時代には軍役衆はすべての税金負担が免除されていたが、この通達ではその特権が奪われた形となっている。また、この新府城の築城と移転は武田一族の多くが反対したという。
築城はハイペースに進められたが、武田方に寝返った北条方の戸倉城主・笠原政晴の救援により、勝頼が移転したのは12月24日となり、予定より大幅に遅れることとなった。
天正同年3月には徳川軍によって高天神城が陥落させられた(第二次高天神城の戦い)。
この戦いで武田家臣の岡部元信が救援依頼を出したにもかかわらず、勝頼は後詰めを送らずに見殺しにしたため、武田家の威信は致命的に失墜し、国人衆は大きく動揺することとなった。
一方でこのころ、織田信長は朝廷に働きかけ、正親町天皇に武田勝頼を朝敵と認めさせて武田氏討伐の大義名分を得ると、さらに信濃・三河国境への砦の構築を実施して三河国・東条城へ兵糧を搬入するなど、翌年の春に向けて武田領への侵攻の準備を着々と進めていたのであった。
こうした中、1582年(天正10年1月)、信濃・美濃国境にあった木曾義昌が織田の調略に応じ、 弟の上松義豊を人質として差し出して離反する事件が起きた。そしてこれを機に信長は2月3日に武田討伐を決定し、ついに動員令を発した(甲州征伐)。
各方面からそれぞれ武田領国へ侵攻が開始されると、圧倒的兵力を誇る敵の前に武田諸城は降伏や逃亡により、次々と陥落。
武田軍団はあっという間に崩壊していった。
そして、2月14日には追い打ちをかけるように浅間山が大噴火し、このことは武田勝頼の没落と信長の勝利と受け止められ、勝頼の求心力は一層低下していった。
さらに2月28日、家臣の穴山梅雪が織田方に内通して離反したため、信濃での決戦をあきらめて新府城へ撤退した。
この謀反によって家中は動揺し、逃亡する家臣が相次ぎ、そして、新府城で最期の軍議を迎えることとなった。
もう後のない勝頼が軍議で重臣に意見を求めたところ、3つの意見が対立。
昌幸の献策は、岩櫃城は地形の起伏も険しいことから大軍の運用が困難であり、さらに上杉氏の救援も得られやすいという理由であったが却下され、小山田信茂の意見が採用された。その理由は昌幸は外様であるが小山田は譜代という理由であったといい、こうして勝頼は結果的に滅亡への道を選択してしまうことになる。
3月3日、勝頼は新府城に自ら火を放って岩殿城へ向けて出発した。このとき、勝頼は北条方になびいた家臣の人質を城内で焼き殺したという(『信長公記』)。一方で昌幸は主君・勝頼と離れて岩櫃城へ向かい、新府城に置かれていた昌幸の人質は全員勝頼から返還された。
『長国寺殿御事蹟稿』によると、昌幸は甲斐から命からがら上野・岩櫃城に帰還することができたという。
勝頼は小山田信茂の意見に従って新府城を出立すると、3月4日には都留郡の入口・笹子峠の麗・駒飼に到着して小山田信茂の迎えを待つものの、3月7日になって小山田信茂の離反が明らかとなった(『理慶尼記』)。これに動揺した武田軍の兵卒の多くが逃亡し、勝頼主従は100人ほどになったという。
都留郡の岩殿城行きを断念せざるを得なくなった勝頼主従らは武田氏の先祖が自害した天目山(甲州市大和町)を目指して逃亡するも地下人たちに行く手を阻まれてしまう。そして3月11日、天目山の目前にある田野の地で最後の戦いを決意し、滝川一益隊を迎え撃ち、大軍を相手に僅かな手勢で奮闘した。
しかし、敗戦を悟った勝頼主従は自刃。ここに名門・甲斐武田氏は滅亡となるのであった。