あなたの好きな戦国武将が詳しく丸ごと早わかり! 最大級の戦国まとめサイト

北条・上杉戦と上田城築城(1582-84年)

真田氏は、武田旧領の争奪戦「天正壬午の乱」で自領を守り抜いたと思いきや、乱の終結後も戦いが収束したわけではなかった。

天正壬午の乱の終結直後の天正10年(1582)11月、信濃国の佐久郡では、本領に踏みとどまって依田信蕃と戦う北条方の武士も少なくなかった。
同年11月7日には信蕃が前山城主・伴野全真、野沢城主・伴野信番を攻めて、関東に追放する。これにより佐久郡の北条方で抵抗を続けるのは小諸城代の大道寺政繁、岩尾城主・大井行吉、田口城の相木常林のみとなる。

狙われる上野国の真田領

上野国においては、北条氏が徳川との同盟によって甲斐・信濃はあきらめて上野国の制圧に乗り出していき、一方の上杉景勝もまた、裏切った真田を不快に思っていたために上野国での報復を企図していたという。

上野国で北条氏に従わなかったのは真田昌幸と厩橋城主・北條芳林(北条高広)だけであり、昌幸は12月までに信濃国・小県郡の根津昌綱を下し、千曲川の対岸に広がる「河南」地域の制圧を目指した。
一方で北條芳林はこのころ、北条氏から真田攻めを要請されるが、これを拒否。芳林は前橋城に籠城して北条方と敵対することとなる。また、北条氏は北條芳林一族の北條長門入道を味方に誘い、原中尾郷を与えて沼田城攻めを企図している。

徳川家康の甲斐出陣

天正11(1583)徳川家康は佐久・小県郡の平定、諏訪頼忠の帰属、そして、北信濃の上杉領の奪取までをも企図しており、甲斐に出陣してくる。

天正同年正月、佐久郡では依田信蕃によって残る北条方の掃討作戦が開始され、また、小県郡では昌幸が丸子城を攻略し、丸子氏を従属させた。これによって小県郡は室賀氏の領地を除いて平定。また、このころに木曾義昌に拘束されていた昌幸の母・河原氏が家康のもとに人質として送りだされることが決定したとされている。
一方で北条氏はこの頃、上野国へ出陣して白井城に在陣。そして、白井城主・長尾憲景が真田方の中山城主・中山氏の調略を行ない、北条方に転じさせることに成功し、中山城の大規模な普請を実施した。また、真田方の尻高氏の一族・尻高源次郎を調略して中山城に配備するなど、真田昌幸と北條芳林の包囲網形成を急いだ。

天正同年2月には依田信蕃が田口城の相木常林を上野国に追放。しかし、2月21日には岩尾城主・岩尾次郎の鉄砲により戦死する事件が起こる。岩尾次郎はこれを潮時として関東へ亡命し、まもなく、北条方の大道寺政繁も小諸城を明け渡して上野へ退去。依田信蕃の死と引き換えに徳川方の佐久郡制圧は完了を迎えたかにみえた。しかし、この後に信濃国衆・根津昌綱と望月信雅が同城を占拠すると、上杉景勝に従属を申し出る。
また、2月下旬には北條芳林の籠もる厩橋城が北条氏政に攻められるも、このときは北条軍を撤退させている。

3月に入り、北条軍は沼田侵攻の準備を整え始める。これに危機感をいだいた北條芳林は上杉景勝に援軍を要請するが、上杉軍は越中の佐々成政や新発田重家と交戦中であったため、援軍派遣ができなかった。
一方で甲斐に出陣した家康は、信濃の諸士を新府城に集結させていた。北信濃衆の屋代秀正を調略し、秀正はそのまま真意を隠して上杉方の海津城に居続けた。また、対上杉対策の相談のためか、小笠原貞慶・真田昌幸・保科正直が甲府に出向いて家康に出仕したのもこのころとされている。

こうした徳川方の佐久・小県郡制圧の動きに警戒した上杉景勝は、牧之島城主・芋川親正に厳重警戒を指示した。
家康は3月10日に佐久・小県郡の残党を狩るため、近日出陣する旨の書状を昌幸に送っており、また、ほぼ同時期に諏訪頼忠を臣従させることに成功している。
また、3月15日には上杉氏の警戒をとりはらうため、加津野昌春が上杉領を攻撃するための侵攻ではない旨を、上杉方の長沼城代・島津忠直に書状を送っている。しかし、間もない3月21日には真田昌幸が虚空蔵山城を攻撃しかけている。このときに上杉方はかろうじて城を守ったが、徳川方に対して大きな疑念を抱くこととなった。

昌幸、上田城築城を開始

4月、昌幸は海士淵にて徳川軍の力を借りて上田城の築城を開始。
築城する場所は海士淵城があった古城跡であり、また、北国街道をおさえる要衝でもあった。また、上杉方の虚空蔵山城とは至近距離の位置にあり、敵前での普請であったために極めて危険な状態であった。一方の上杉方にとっては、上田城の完成は北信濃の自領が大きく脅かされることになるのであった。

徳川方に不信感を強めた上杉景勝は、5月12日に飯山城代・岩井信能に虚空蔵山城へ援軍を送るように命じ、自身も出陣を決めていたが、越中の佐々成政との対立が再燃したために出陣を断念。
その後、真田昌幸の上田城の普請を知った景勝は今度は昌幸討伐の命をだす。しかし、上杉方は虚空蔵山城に兵を集結させていたものの、突如、踵をめぐらして麻績城に転進する。これは徳川方で松本城主の小笠原貞慶が隙をついて上杉方の青柳城・麻績城へ侵攻したためであった。上杉方は貞慶に大勝したが、越後国内での新発田重家との戦いもあったために全軍撤退した。

沼田・吾妻領の危機

5月、家康は北条との和睦条件の一つである上野国の沼田・吾妻領の引き渡しを北条氏政から迫られていた。家康はこのとき、家臣・朝比奈泰勝を使者とした北条方への回答の中に、沼田・吾妻領を北条方に引き渡すことが含まれていたという。しかし、上野国の沼田・吾妻領は昌幸が自らの戦いで切り取った場所であり、武田家臣時代に受け継いだ土地であったため、昌幸は家康の説得に応じることはなかった。
なお、この後、家康は昌幸の説得を一旦中断することとなったが、その背景には織田家の覇権争いの勝者となった羽柴秀吉との対立が顕在化しはじめたためではないかと推測されている。

6月、家康の娘・督姫が北条氏直に嫁ぐこととなり、徳川方と北条方で軍事同盟が締結される。その一方で昌幸は沼田城の将として矢沢綱頼を派遣して沼田衆の統括にあたらせたが、沼田城は北条軍の攻撃に直面していて危機的情勢であった。

7月には北条の使者が沼田城を訪れるものの、矢沢綱頼と金子美濃守らはその使者を切り殺してしまう。綱頼はこれを上杉方に報告してまもなく従属し、代わりに援助を求めた。
7月15日には景勝が綱頼に対し「昌幸の考えるところは不審ではあるが、北條芳林の使者に状況を聞いたところ、確かだとわかった。」と伝えている。

昌幸が景勝と敵対関係でありながら、矢沢綱頼が上杉方に転じたのはやむをえない状況であり、昌幸も了承していたと考えられている。また、これは北條芳林による上杉への働きかけによるものとされている。

一方において上野国・厩橋城の北條芳林は上杉方の援軍を得られずに北条方によって完全に包囲されていた。9月に入り、北條芳林は降伏して前橋城が開城。また、一方で沼田領の真田方も迫る北条方を迎撃するため、津久田に出撃して北条軍と交戦したとされている。

北条軍の沼田領攻撃の停滞

11月下旬には北条方の由良国繁、長尾顕景が謀反。これを機に佐竹・宇都宮・佐野氏ら反北条勢力と北条氏の攻防戦がはじまり、沼田領を脅かしていた北条軍の攻撃が急に頓挫する。

天正12(1584)1月、真田方にとってこれが反撃の好機となり、上野・白井城の北条方を吾妻郡の谷筋へ誘いこんで撃破。続いて同年3月には南雲で北条軍と交戦するなどする。
こうして真田方は対北条戦による危機を脱することになるのであった。


おすすめの記事



 PAGE TOP