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昌幸暗殺に失敗、最期を迎える室賀正武(1584年)

天正12年(1584)3月、信長亡き後の織田政権では、信長次男・織田信雄羽柴秀吉と険悪になっており、親秀吉派である三家老の津川義冬・岡田重孝・浅井長時を殺害したために秀吉を激怒させた。

信雄は徳川家康を頼って同盟を結び、秀吉打倒の兵をあげたため、大国同士の広域の戦争が勃発する。(小牧・長久手の戦い)

秀吉と家康の抗争に巻き込まれる信濃国衆

秀吉は楽田に本陣、家康は小牧山城に布陣し、尾張北部の小牧城や犬山城を中心として、尾張南部、美濃西部、美濃東部、伊勢北部、紀伊など、各地で戦いが繰り広げられた広域の戦役であった。緒戦は信雄・徳川連合が羽柴秀次隊に大勝するなど優勢であったが、その後は戦線膠着状態に入っていく。

この戦いの中で、実は信濃国衆も大きく巻き込まれていた。

秀吉は上杉景勝に対し、信濃国侵攻による家康への牽制を求めており、一方の家康は上杉方の抑えとして、真田昌幸や小笠原貞慶ら、西の抑えに木曾義昌と知久頼氏ら等の信濃国衆を頼る形となっていた。※小笠原貞慶は国衆ではなく信濃守護の出自。

同年3月、徳川方の小笠原貞慶は青柳城・牧之島城を攻めていたが、すでに陥落させていた水内郡千見城を上杉軍に奪回される。上杉景勝は虚空蔵山城を狙う真田に対抗するため、羽尾源六郎を支援する形で上野国吾妻郡の丸岩城を攻略させる。さらに源六郎が岩櫃城の調略に動き、真田家臣で羽根尾城将の湯本三郎左衛門尉を寝返らせている。
また、下旬には秀吉が調略によって徳川方の木曾義昌を寝返らせており、これは小笠原貞慶に奪われた所領回復が叶わなかったためと言われている。

4月に入ると、上杉方の信濃国衆・屋代秀正が一族とともに出奔して徳川方へ転じ、荒砥城と佐野山城に籠城して上杉方と対峙した。屋代秀正は家康が1年前から内通していたのである。
これに対し、上杉景勝は急遽信濃国へ出陣。屋代秀正は上杉方と交戦の末、敗戦して徳川領へ逃亡。のちに明き城となっていた虚空蔵山城を占拠。家康は昌幸と依田康国に屋代秀正の支援を命じている。
この混乱により、上野国の羽尾源六郎は孤立、その後の消息は不明となった。

一方で小笠原貞慶は青柳城を攻略。念願の青柳城・麻績城を確保したので、今度は家康の要請に応えるため、秀吉に寝返った木曾義昌を討つべく軍勢を転じる。木曾義昌は小笠原貞慶と伊那衆の挟み撃ちにさらされ、伊那からの備えとして妻籠城を築城する。

5月には木曾義昌が徳川方・小笠原貞慶の侵攻を一旦撃退している。上杉景勝と直江兼続は同月中旬頃まで海津城に在陣し、徳川方への内通者探しに躍起になっていた。また、景勝は秀吉との連携を深めるべく、翌月には畠山義真を自らの養子・人質として差し出す。

昌幸暗殺計画と小県郡の統一

6月、家康はこの沼田・吾妻領引渡問題を解決するために昌幸暗殺を計画し、小県郡の国衆・室賀正武に徳川家臣・鳥居元忠を介して昌幸暗殺を命じ、室賀はこれを承諾した。

ちょうどタイミングよく、囲碁の名手が真田昌幸を訪問する話があり、室賀も上田城に招待され、翌月に向かうことになっていたという。
これを機とみた室賀は、家臣・室賀孫右衛門を鳥居元忠のもとへ派遣し、暗殺実行に向けた援軍を要請した。 しかし、実は室賀孫右衛門を含む室賀家中の者の多くがすでに昌幸に内通しており、暗殺計画は昌幸に筒抜けであったという。

7月、なにも知らない正武はわずかな手勢で昌幸のいる上田城へ入り、昌幸の暗殺計画を実行に移そうとしたが、逆に真田方の手で謀殺され、室賀正武の妻子は甲斐へ落ち延びたという(『加沢記』)。

この事件以降、昌幸は家康との手切れを悟り、再び上杉景勝方につくことを探りはじめるのである。

事件の真相は?

室賀正武といえば、NHK大河「真田丸」で正武役の西村雅彦さんが放ったフレーズ、「黙れ小童(こわっぱ)!」、が記憶に新しいが、ところで、この昌幸暗殺未遂の事件は本当にあったのであろうか?

『加沢記』は江戸時代初期に成立した後世の史料なので、これだけでは確証はもてない。しかし、以下の2つの史料にも示されている。

  • 常福寺の善誉(ぜんよ)という僧侶が上杉家臣の栗田氏に宛てた書状。一次史料
  • 『士林泝洄(しりんそかい)』という尾張徳川氏の家臣の系譜集。史料の信頼性は不明。

善誉の書状には、室賀は逆心を企てて自害したこと、善誉が栗田氏に室賀の遺族の保護を依頼していることなどが示されている。また、『士林泝洄』には室賀が昌幸に謀殺されたことや、室賀の遺児が善光寺に入ったこと等が記されている。

歴史専門家の平山優氏は上記の史料を裏付けとして史実とみているようだ。

小牧・長久手の戦いは終息へ

9月には徳川方・保科正直や菅沼定利ら伊那衆が徳川方から離反した木曾義昌の妻籠城を攻めるが、義昌は籠城戦で撃退に成功した。しかし、10月に再び小笠原貞慶が攻撃をしかけ、義昌は敗退して妻籠城を捨てて、福島城に籠城して滅亡寸前まで追い込まれたが、木曾の援軍や百姓らの反撃もあってかろうじて撃退した。

11月に入ると、伊勢で秀吉軍の侵攻をうけた織田信雄が家康に無断で単独講和したため、家康も大義名分を失い、こうして小牧・長久手の戦いは終結を迎え、織田政権は完全に崩壊することとなった。




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