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真田、秀吉に臣従する(1585-87年)

天正13年(1585)徳川家康と決別し、上田合戦において大勝利を飾った真田父子であったが、真田昌幸の次なる一手は、既に天下を掌握しつつあった豊臣秀吉への接近であった。

秀吉へ接近する昌幸

同年10月、昌幸は秀吉から支援の確約を得たが、10月19日付で秀吉から送られてきた条目では、徳川征伐に協力するよう求められている。主な内容は以下のとおりである。

  • 家康を成敗するつもりだ。
  • 来年1月には家康討伐に出陣する予定だから、真田も参陣すること。
  • 信濃と甲斐については小笠原貞慶と木曾義昌と相談し、計略を進めること。

上述のように、秀吉は昌幸の相談相手に小笠原貞慶を指定しているが、実はその小笠原貞慶も10月17日に徳川から豊臣方に寝返ったばかりだった。

石川数正が突如出奔?

11月、家康の重臣で三河国・岡崎城代の石川数正が突如出奔した。その要因としては以下のような点があげられる。

  • 家康と秀吉との関係が悪化していた。
  • 秀吉の取次役を務め、秀吉との開戦反対派として関係改善に尽力していた。
  • 徳川家中では秀吉と開戦の方向に傾いていた。
  • 数正の統制下においていた小笠原貞慶が離反した。
  • 家康が秀吉への人質提出の拒否を決定した。

こうして数正は秀吉の調略を受けた際に、一族や妻女、小笠原貞慶の人質の幸松丸らを連れて秀吉のもとへ去っていった。家康はただちに同盟国の北条氏にこのことを知らせ、真田との戦いで信濃に在陣していた徳川軍に撤退を命じた。

一方でこのことを知った昌幸はなぜ撤退したのかわからず、上杉方の直江兼続に宛てた書状では、"原因究明のために目付(=スパイ)を甲斐に派遣し、理由がわかり次第報告する" 旨を述べている。

家康は徳川軍の軍事機密が石川数正によって豊臣方に漏洩したことで、甲斐の武田遺臣らに信玄・勝頼期の武田軍の軍事情報を提出させ、これを模範とした軍事制度の改革を行なったといい、また、秀吉による一揆煽動を想定して三河一向宗の赦免も行なうなど、国内の臨戦態勢の構築を急いでいった。

こうした中、小牧長久手の戦い以降に敵対関係となった豊臣方から織田信雄の使者を通して講和を求められるものの、家康はこれを拒否。同時期には日本の中部で天正大地震が発生して各地で大きな被害が発生した。

家康と対立する信濃国衆

12月には秀吉方となった小笠原貞慶が徳川方に攻勢をかけたが、保科正直の居城・高遠城の攻略に向けてに出陣するも老将の保科正俊の奇策によって撃退されている。一方において昌幸は小県郡の信綱寺に対し、同寺に武田信玄の菩提寺を建立すること、さらに、佐久郡の制圧後には龍雲寺を与えることを通達した。
なお、信玄の菩提寺である甲斐・恵林寺は、このころ既に信長軍による焼き討ちで壊滅していた。

このように家康は軍事機密が秀吉に筒抜けとなり、さらに、木曾義昌、真田昌幸、小笠原貞慶といった信濃国衆が秀吉に転じたことで信濃国のほぼ過半を秀吉方に奪われるという緊急の事態であった。

秀吉、一転して家康を懐柔

天正14年(1586)に入り、秀吉は徳川征伐を実施するつもりだったが、一転して強硬策から外交交渉へと転換することになった。というのも、前年の天正大地震の被害は特に秀吉の領地において甚大であったからである。
そして、秀吉方の織田信雄が自ら家康の元へ赴いて和睦交渉を行ない、家康もようやく和睦を受け入れた。

一方の昌幸は、家臣に対して佐久郡を制圧したら同地を恩賞として与えるといった知行宛行状を発給していた。しかし、2月には徳川に対する出兵の中止により、昌幸にも信濃での停戦命令が届き、佐久郡の制圧計画は中止となる。

4~5月、秀吉は家康の上洛を促すため、妹・旭姫を家康の正室とさせた。家康は秀吉と和睦したことで、真田昌幸の攻略に動き出す。同時に同盟国の北条も、北条氏邦が再び岩櫃城に向けて侵攻を開始し、氏邦家臣の猪俣邦憲が計略で真田方の仙人ヶ岩屋城を奪取。その後は沼田城を包囲し、矢沢頼綱に降伏を勧告する。

これに対し、昌幸は家臣・湯本三郎右衛門と河原左京亮を岩櫃城へ派遣して守りを固め、また、沼田城の矢沢頼綱は奮戦して北条軍の撃退に成功。真田軍と北条軍による吾妻・沼田領周辺での攻防は、真田が自領を守り抜く形での勝利となった。

真田氏滅亡の危機

6月、上杉景勝が上洛し、秀吉に臣従することを誓う。木曾義昌、小笠原貞慶らもその前に上洛し、領土を保全されて大名として取り立てられていた。
しかし、こうした秀吉の上洛要請の動きにもかかわらず、昌幸は上洛せず、代わりに要請された人質も拒否したため、秀吉の怒りを買うことになる。

7月、家康は昌幸討伐のために浜松城から駿府城へ入った。そして、8月、昌幸の態度に激怒した秀吉は景勝に対して昌幸への支援を禁じ、昌幸を「表裏比興者」と評した。さらに、家康に対しては真田成敗を認める条目(以下)を送る。

  • 真田領内で上杉援軍が在番している城(2、3箇所)には手をださないこと。
  • 上杉景勝には徳川方と交戦しないように指示した。
  • 上杉氏と徳川氏の境界に関しては、使者を派遣して決めるから承知しておくように。
  • 木曾義昌、小笠原貞慶の所領については家康上洛時に引き合わせて指示をするから、手をださないこと。

しかし、秀吉はまもなくして家康に出兵延期を求めた。その後、自ら昌幸討伐に向かう意思を表明して、家康の再出兵を認めている。(これは上杉軍と徳川軍による戦争回避の配慮という推測がある。)

9月、滅亡の危機に直面していた昌幸であったが、真田成敗のとりやめの報が上杉景勝に届いて難を逃れた。これは昌幸が景勝に仲裁を依頼しており、景勝の嘆願によるものであったといい、また、真田成敗のとりやめの翌日に家康の上洛が決定したことの影響もあると考えられている。

徳川と真田、ついに秀吉配下に

同じ頃、秀吉は家康へ再度上洛を要請し、三河国へ母・大政所を下向させることを伝達した。これは表向きは旭姫との対面であるが実際には母を人質として送ることで上洛を促すということであり、これには家康も上洛を承知せざるを得なかったとみられている。

10月に大政所が三河・岡崎城に入る一方、ついに家康は上洛して秀吉に臣下の礼をとった。その翌11月には家康は岡崎城に、大政所は井伊直政の警護で大阪へ戻り、秀吉は太政大臣に任ぜられて豊臣性を称することになった。

このころ、徳川の同盟国・北条氏は家康が上洛して軍事衝突が起こった場合にそなえ、出陣の準備を整えていたという。

12月、家康は本拠を駿府城に移している。

真田氏、豊臣大名に

天正15年(1587)1月、秀吉は上杉景勝に書状で真田昌幸の赦免を正式に通達し、昌幸の上洛を指示。これに昌幸は小笠原貞慶とともに上洛した。『長国寺殿御事蹟稿』によれば、この上洛時に信幸・幸村も伴ったという。

そして昌幸はついに家康重臣・酒井忠次も同席する中で初めて秀吉に謁見となった。なお、秀吉は上杉景勝の上洛時には既に真田昌幸・木曾義昌・小笠原貞慶を家康の支配下に置くことを決めていたらしい。

こうして家康与力を命じられた昌幸は、3月には小笠原貞慶とともに駿府城へ入り、家康に出仕。こうして真田氏は徳川家康との対立が解消され、豊臣大名として正式に認定されて領土安堵を得たのである。
なお、幸村は秀吉への人質となり、一説にこのときに人質として提出されたというが、定かではない。


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