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沼田領の裁定(1587-89年)

北条氏、秀吉の軍門に降る

豊臣政権は、真田昌幸が臣従した天正15年(1587)3月の時点で、徳川・上杉・毛利・長宗我部といった戦国大名を臣従させており、既に九州地方に向けて出していた惣無事令(=私闘を禁じた法令)に違反したという大義名分で島津氏の討伐を行なっていた。(九州征伐)

関東惣無事令の発令

一方、関東の北条氏は、前年に同盟国の徳川家康が上洛した時から豊臣政権との対決を想定して臨戦態勢に入っており、この頃には自国領内の城郭の本格的な改修に取り掛かっていた。

やがて九州平定を成し遂げ、関東と奥羽を除くほとんどを勢力下に置いた豊臣秀吉は、同年末に仮想敵国を関東の北条氏・奥羽の伊達氏として、関東・奥羽の惣無事令を発令。これを家康に一任して監視させた。
これは豊臣政権という強大な軍事力を背景に、強制的に停戦させて政権への服属を迫り、従わない者は成敗するという論理で天下統一をはかろうとしたものであった。しかし、北条氏はこれに従うことなく、上野国では北条氏邦が沼田領侵攻を繰り返していた。

秀吉に降る北条氏

天正16年(1588)4月、秀吉は政庁兼邸宅である聚楽第に後陽成天皇の行幸を迎え、これを饗応。これは、足利義満による後小松天皇の北山殿行幸を手本としたもので、天皇の権威を利用し、自身の権威確立を図ったものであった。
このとき、秀吉は各諸大名から関白命令への服従を誓わせる起請文を提出させている。また、北条氏にも上洛を促していたものの、北条は応じなかった。

5月、秀吉の意を受けた家康が起請文を添えて北条氏政氏直父子に以下の内容を通告。

  • 今後も徳川氏と北条氏の同盟は継続していくこと
  • 氏直兄弟の誰かが上洛して秀吉に「御礼」を言うこと
  • 北条氏は秀吉に出仕(=従属を意味)すること

これを拒否した場合、督姫(=氏直の正室)を徳川方へ返してもらうといった内容も書かれており、北条はやむをえず、これらの要請を受け入れると、8月には北条氏規が上洛して秀吉に謁見。豊臣政権への従属を表明し、ついに秀吉に降った。

9月、秀吉は北条を赦免して関東の領域画定で上使を派遣すると関東諸将に通達、さらに、残る関東諸将らに豊臣政権への服属のための上洛を促した。

吾妻・沼田領の裁定

一方で秀吉は天正壬午の乱終結後の徳川・北条の和睦条件を巡る沼田領問題の実態調査を開始していた。

天正17年(1589)、北条氏にこの経緯をよく知っている家臣らの上洛を命じ、これに北条重臣・板部岡江雪斎が出頭して事の経緯を報告した。
その中で、天正壬午の乱での和睦条件において、家康が「沼田領を譲渡する」ということではなく、「沼田領を切り取り次第とする」という意味であったことが明らかになったという。
秀吉は実態調査の結果、北条氏の沼田領有の主張は言いがかりと捉えた。しかし、北条氏の服属を優先させるとなると要望を拒否することもできず、一方で真田昌幸も名胡桃は祖先の墓があるから引き渡せないと主張していた。

そうした中で秀吉の裁定結果は、沼田領のうちの沼田城を含む3分の2を北条氏、名胡桃城を含む3分の1を真田氏の所領とする分割案となり、沼田領3分の2を失う真田には替地として家康が補償するといったものであった。

秀吉はこの裁定を受けいれて氏直上洛の誓約書を提出すればすぐに沼田領裁定を確定させる旨を北条氏に伝えた。北条はこの裁定に不満であり、沼田領全域を求めたものの、受け入れられなかった。

この裁定が行なわれる前に、北条氏邦の書状の中で、真田領の沼田領は全面割譲ですべて北条のものとなると楽観視している内容のものが確認されている。

6月、北条は結局、秀吉との開戦を避けるために裁定を受諾、氏政が出仕するとの文書を送っている。

7月、秀吉は沼田に検使を派遣し、家康家臣の榊原康政の指示のもとで沼田領の引き渡しを行なわせた。このとき昌幸は案内役を命じられ、また、北条氏堯が請取人として派遣された。
なお、秀吉は真田と北条で戦争が起きないように、北条方の軍勢の動員を1000人程に限定するよう命じたが、北条氏は無視して2万の軍勢で沼田城周辺に布陣したという。

同月中に引き渡しは完了し、北条方は沼田城に猪俣邦憲が、権現山城には吉田真重が配備された。一方の真田方は名胡桃城に家臣の鈴木主水を配備し、沼田領3分の2にあたる替えの地として家康から信濃国伊那郡箕輪領を与えられた。

こうして、天正壬午の乱の最後の戦後処理をようやく終えることとなった。


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